徳川家康は豊臣秀頼を二度の大坂の陣で自害に追い込み、攻め滅ぼした。


なぜ秀頼は家康に滅ぼされたのだろうか。詳しく見ていこう。


家康は秀頼が寄進した京都・方広寺の梵鐘の、僧・清韓が書いた銘文に難癖をつけて、戦いのきっかけを作った。


1614年慶長19年11月、家康は「大坂冬の陣」で20万の兵士を動員して、大坂城を攻撃した。


大坂方は全国から9万人の浪人たちを集め、大坂城に立てこもった。


この戦いで真田信繁が大坂城の弱点と言われた南側に真田丸を築き、東軍に大きな打撃を与える。


家康は大坂城北方に大筒を設置して、主戦論者の茶々がいる住居付近を攻撃した。


大筒の攻撃で数人の侍女が即死したことで、ショックを受けた茶々は和睦に応じる。


徳川方は本多正純と阿茶局、豊臣方は茶々の妹の初(常高院)が調停に入った。


和睦の条件として家康は「本丸を残し、大坂城の二の丸、三の丸を破壊する」ことを求めた。


この大坂城の二の丸、三の丸を破壊、に関しては、家康が勝手にすべての堀を埋めたとする説と、大坂方も承知していたとする説がある。


このあと大坂方が家康に抗議したために翌年に大坂夏の陣が起こるのである。


もしもすべての堀を埋められることを大坂方が納得していれば、大坂方は抗議をしないだろうし、大坂夏の陣は起こらなかっただろう。


徳川家康は長年、織田信長の元でナンバー2として厳しい指令にも逆らわず、忍従の日々を過ごした。


それは豊臣秀吉が天下人となってからも、変わらなかった。


家康は30年あまりを天下人に耐えながら、ナンバー2として仕えたことになる。


ところが関ヶ原の合戦で勝利した家康は、やっとトップの座を手に入れるのである。


しかしこの時点で豊臣家は65万石の一大名になったとはいえ、大坂城の蔵には巨万の富が眠っていた。


この秀吉が残した莫大な遺産があったために依然として、豊臣家は大きな影響力を持ちつづけるのである。


ナンバー2の地位に落ちた豊臣秀頼がこの時、以前の家康のように従順な姿勢をみせていれば、豊臣家は滅びなかったかも知れない。


しかし関ヶ原の合戦が行われた当時、秀頼はまだ8歳の子供だった。


せめて豊臣家に有能な家臣が生き残っていれば状況は変わったが、ほとんどが関ヶ原の合戦で死んでしまった。


秀頼や茶々を諭して、大坂城を出て、大和郡山の一城主になっていれば豊臣家は、生ながらえていたに違いない。


しかし茶々や大野治長らの首脳陣はナンバー2という地位が、いかに不安定で危険であるかを理解していなかった。


ナンバー2は家康のように、実力は持ちながら、トップに従順な態度を示し続けなければならない。


長年の人質生活を送った家康と同じ苦労を、秀頼や茶々たちに求めるほうが酷というものである。


苦労人の家康には、自分以外にそのような忍従を豊臣家の人々が出来ないことは最初からわかっていた。


そのため家康は関ヶ原の合戦に勝利を納めた時点ですでに、豊臣家は滅ぼす以外ない、と考えていたにちがいない。


大坂夏の陣で豊臣秀頼と茶々は、家臣たちと自害して豊臣家は滅亡する。


自害した人たちの中には、方広寺梵鐘の銘文を書いた僧侶・清韓もいた。


清韓は自分の書いた銘文のために、豊臣家が滅びることになったため、責任を感じていたという。


大坂夏の陣の後にも落城した大坂城の土蔵には、まだ黄金2万8千枚、銀貨2万4千枚が残っていたという。

豊臣秀吉が残した遺産がどれだけあったのかは、想像もつかない。


だがこの莫大な遺産が、秀頼や茶々を狂わせたといえなくもない。


もしも秀頼が金もなく、単なる一大名に落ちぶれていれば、家康に自害にまで追い込まれなかった。


豊臣秀吉が我が子・秀頼のために残した莫大な遺産、その遺産が豊臣家を滅ぼしたといえなくもない。


西郷隆盛の言葉「子孫に美田を残さず」は、やはり時代を越えて真実なのかも知れない。


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