真田昌幸は、戦国一の名将と称えられた武田信玄に「我が両眼の如し」と絶大な信頼を寄せられた智将であった。


しかし関ヶ原の合戦では西軍に与したため、晩年は不運にも配流先で過ごした。


真田昌幸の最期を詳しく見ていこう。


真田昌幸は武田信玄の家臣・真田幸隆の三男として生まれた。


7歳の頃から信玄の小姓、奥近習衆として仕えた昌幸は、信玄から戦略や戦術、外交などを直接学んだ。


やがて並みいる武田の猛将の中でも頭角をあらわした昌幸は、信玄の重臣として川中島の戦いなど数々の合戦で活躍している。


そのため信玄は近習の昌幸と曽根昌世の二人を「我が両眼の如し」と信頼し重用した。


しかし信玄の跡を継いだ武田勝頼が滅び、次に頼った織田信長も本能寺で倒れる。


昌幸は豊臣秀吉について、徳川家康とは対峙して、第一次上田合戦では数倍の兵数の徳川軍をたぐいまれな戦術で撤退させている。

1600年慶長5年、徳川家康が上杉討伐に出陣すると、大坂で石田三成が反徳川ののろしを上げ、関ヶ原の合戦が始まる。


真田家は家名存続のため、嫡男の信之は東軍に、昌幸と次男の信繁は西軍に与した。


家康は嫡男・秀忠に3万8千の大軍を授け、中山道を西進させた。


家康は秀忠に、西軍へと寝返った真田昌幸を真っ先に血祭りにあげさせて、一挙に気勢をあげるつもりであった。


秀忠は8月24日に宇都宮を出発、昌幸が籠る上田城を攻略するために、信濃国小諸城に入った。


第二次上田合戦は城下の庶民も巻き込んでの戦いとなった。


昌幸は町民や百姓に、敵の首一つで知行100石を与えると約束して鼓舞したという。


その結果、昌幸は真田家に伝わる秘法を駆使して、たった3千で人数で秀忠率いる3万8千の徳川軍を翻弄した。

当初昌幸は、秀忠にあっさりと降伏する素振りを見せていた。


ところが、昌幸は証となる誓書をなかなか出そうとしないため、数日が無駄に過ぎ去る。


たまりかねた秀忠が、真田信之を通じて催促すると、昌幸は平然と次のように答えたという。


「お待たせしたが、やっと戦い準備が整ったので、返事が遅れもうした。」


「武器も兵糧も整ったので、そろそろ合戦のお相手をいたそう。」と昌幸は秀忠に返事する。


これを聞いた秀忠は、顔を真っ赤にして激怒して、上田城への総攻撃の命令を出している。


そのためこの第二次上田合戦も第一次と同じように、徳川方は多くの犠牲者を出して撤退する。


結局秀忠は関ヶ原の合戦には間に合わず、家康から叱責されることになる。


しかし真田昌幸の奮戦むなしく西軍は敗れ、家康は領地を召し上げたうえに昌幸と信繁に死罪を申し渡した。


信之と舅の本多忠勝の懸命の助命嘆願で、家康は昌幸と信繁の命は助け、紀伊国九度山に配流とした。


九度山での昌幸は、16人の家臣が付従って元大名の格式を崩さなかったという。


そのため出費もかさみ、昌幸は度々国もとの信之に金の無心をした。


九度山は高野山の山麓で、日中と夜間の寒暖さが激しい、60歳を過ぎた昌幸の身にはつらい居住環境であった。


また昌幸は本多正信に盛んにとりなしを頼み、赦免も近いと信じていたようである。


しかしその願いも叶わず、さすがの昌幸も晩年には国もとに「気根がくたびれ候、大くたびれ」という愚痴のような手紙を数多く送っている。


老年期特有のうつ状態におちいったと思われる症状を示した真田昌幸は、1611年慶長16年、64歳で逝去した。


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