千姫は徳川家康の孫で豊臣秀頼に嫁ぐが、豊臣家が滅びると淫乱に走ったや、自害させられたなど様々な逸話で語られている。


本当の千姫の生涯を見ていこう。


千姫は1597年慶長2年5月、のちに徳川幕府の二代将軍となる秀忠とお江の長女として生まれた。


すると豊臣秀吉はまだ4歳の秀頼の許嫁に千姫を指名する。


7歳になったばかりの千姫は1603年慶長8年7月、秀吉の遺言を遵守した徳川家康によって11歳の秀頼のもとに嫁いだ。


千姫の母・お江は茶々の妹なので、秀頼と千姫は従兄妹同士である。


千姫が嫁いでからも、豊臣家と徳川家の仲は険悪化するばかりであった。


そしてついに1614年慶長14年に大坂冬の陣が勃発する。


この時は掘りを埋めることによって講和が成立するが、大坂城は本丸を残すばかりの裸城となっていた。


翌年に再び全国に出陣の号令を発した家康は、大坂城を十数万の兵士で取り囲んだ。


この大坂夏の陣で大坂城は炎に包まれたが、その中で千姫の救出作戦が決行される。


この千姫の救出作戦については、戦いで混乱している中、関係者の多くが戦死しているため、事実が歪められ様々な逸話が生まれ語られてきた。


その中でも一番多く語り継がれてきた通説は、次のようなものである。


落城寸前の大坂城で茶々は千姫が逃げないように、千姫の振袖を膝の下に敷いて監視していた。


しかし刑部卿局がすきを見て千姫を逃し、旗本の坂崎出羽守が火傷を負いながら千姫を城外に救い出した。


火傷で醜くなった出羽守を嫌った千姫は、本多忠勝の孫でイケメンの本多忠刻に一目惚れして結婚する。


出羽守は千姫を取り戻そうとするが失敗して殺害される。


千姫は忠刻との間に子どもをもうけるが、忠刻も早世してしまう。


江戸に戻った千姫は、麹町の吉田御殿に住んで色欲に溺れ男を漁ったために、やがて将軍に自害させられる、というストーリーである。


江戸時代には庶民の間に、以上のような逸話がまことしやかに広まり、現代にまで語り継がれてきた。


しかし、これらは全くの作り話で、事実とは相違していたのである。


実際には大坂方の大野治長が茶々と秀頼の除名嘆願のために、千姫を大坂城から脱出させている。


また脱出交渉にあたった大坂方の堀内氏久が、たまたまそばに陣を張っていた坂崎出羽守ではなく坂崎直盛に千姫を託しただけであった。


家康のもとに送り届けただけの坂崎直盛が、いつの間にか坂崎出羽守というヒーローとなってしまったのである。


また千姫が脱出したのは、大坂城が炎に包まれる前日のことであったため、直盛が火傷を負ったというのも全くのでたらめである。


ただし直盛が千姫を奪おうとしたの事実であったようだ。


京都に知り合いの多い直盛は、家康から千姫の嫁ぎ先に公家を探すように頼まれていた。


ところが千姫が本多忠刻に一目惚れして嫁ぐことになったので、直盛は面目まるつぶれとなった。


そのために直盛は、千姫の花嫁行列に割って入って結婚を阻止しようとしたというのが事実である。


また千姫が吉田御殿で乱行を繰り広げたというの話も全くの創作である。


麹町には吉田という地名はなく、東海道の吉田宿という色街があり、美しい遊女がいることで有名だった。


そのために千姫と吉田宿を結びつけて、おもしろおかしく語られたようである。


江戸の庶民は徳川家の人々を揶揄して、日頃のうっぷんを紛らわしていたと考えられる。


実際は、大坂夏の陣の翌年に本多忠刻と結婚して、10年目に死別した千姫は江戸に戻り剃髪して天樹院と名乗っている。


さらに千姫は秀頼の忘れ形見である女の子を引き取って養育し、鎌倉東慶寺の尼・天秀尼となるまで育てあげている。


千姫は1666年寛文6年、竹橋御殿で70歳で亡くなるまで、貞淑な未亡人を通したのである。


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