小早川秀秋は寧々の甥でありながら関ヶ原の合戦では東軍に与したために「天下の裏切り者」と言われ悶死したともいわれている。


小早川秀秋の最期を詳しく見ていこう。


秀秋は豊臣秀吉夫人・寧々の兄・木下家定の五男として生まれた。


子どもがなかった寧々はまだ秀俊と名乗っていた甥の秀秋を、手塩にかけて養育している。


秀秋は、秀吉の相続人として大事に扱われ、聚楽第に後陽成天皇が行幸された時にも、7歳でこの晴れの席に出席している。


しかし茶々に世継ぎの秀頼が生まれると、秀吉の姉の子である関白秀次とともに秀秋の立場は一転する。


秀吉はまず秀頼の地位を脅かす秀次を切腹させ、その一族30数名を京都の三条河原で虐殺する。


続いて秀秋も秀吉に殺されてもおかしくはなかったが、黒田如水が機転をきかせて秀秋を小早川隆景の養子にする話をまとめた。


秀秋はこの時にまず、黒田家に大きな借りをつくったのである。


如水ははじめは毛利輝元に嗣子がないことに目をつけ、毛利家に秀秋を迎える話を持ちかけた。


ところが輝元の叔父の小早川隆景が一族から輝元に養子をあてがってこの話を阻止した。


隆景は代わりに自らの養子を廃して、黒田家の勧めに従って秀秋を小早川家に迎え入れている。


秀秋は小早川家の養子となり、毛利輝元の養子と結婚、筑前名島23万石を相続している。


秀秋はわずか16歳でありながら、1597年の慶長の役では秀吉から総大将を命じられ朝鮮へ出兵している。


加藤清正が蔚山城に籠城したため、秀秋は救援のために大軍をもよおした。


すると秀秋は自ら槍をふるい、明軍を追いかけて殺し回り、総大将にはあるまじき所業を繰り返した。


そのために石田三成の報告で日本へ呼び戻された秀秋は、軽率な行動で秀吉から強い叱責を受けた。


このため秀秋は総大将の役職をはずされ減封となったために、秀吉に讒言したと思い込んで三成を恨んだという。


しかしこの時に徳川家康がとりなして秀秋は減封を免れたため、秀秋は家康にも大きな借りをつくっている。


秀秋は関ヶ原の現場で裏切ったと言われてきたが、近年では秀秋は当初から家康に与することを黒田家を通じて決定していたと考えられている。


1600年慶長5年、家康が上杉討伐の兵を挙げると、三成が大坂で挙兵する。


秀秋は伏見城に入って東軍として戦うつもりだったが、鳥居元忠に拒否されたために、仕方なく西軍と伏見城を攻めている。


三成は当初、関ヶ原の松尾山が戦場を一望出来る要地であったため毛利勢を配置させる予定であった。


ところが決戦前日の午後に秀秋が松尾山に陣取ってしまった。


そのために小早川軍1万5千を、石田三成は当初から警戒していたために、松尾山の麓には大谷吉継の軍が、小早川軍に向かって陣を敷いていた。


戦闘が始まると、秀秋は若いがなかなかの軍略家で、東軍西軍が互角に戦っているときは動かず、西軍が押されぎみになると突然動いた。


そのため通説のように、家康が鉄砲で脅したために動いたのではないこともわかってきている。


関ヶ原の合戦の勝利で、小早川秀秋は家康から備前・備中・美作57万石を与えられた。


しかし世間では優柔不断な裏切り者の武将とのレッテルを張られ、揶揄された。


そのために秀秋は、次第に世間から逃避するように酒に溺れて行く。


秀秋は朝鮮では獰猛な一面を見せたが、本質的には臆病な性格であった。


また身長は180cm近い大柄の秀秋であったが、世間の批判と大藩を任せられた重圧に精神的に耐え切れなかったようである。


朝から酒を飲むという酒浸りの生活が続き、手指の震え、不眠、そしてついには妄想を見るという状態が続いた。


そのために大谷吉継の亡霊が秀秋を苦しめたとか、仇に毒を盛られたなどの噂もたったようである。


小早川秀秋は関ヶ原の合戦から2年後の1602年慶長7年10月、まだ21歳という若さで逝去した。


多量飲酒による多臓器不全が秀秋の死因だと言われているが、男子がなかった小早川家は改易となってしまった。


なお小早川家は、明治時代に入って毛利家が懇願して、本家から養子を出すという条件で復活している。


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