茶々は、日本史では長年に渡って豊臣秀吉の死後に徳川家康と対立して、最期は豊臣家を滅ぼした悪女だとされてきた。


しかし近年では、豊臣家と徳川家の確執は主義主張の相違による必然的な結果だとも言われている。


家康と茶々が対立した本当の原因を、詳しく見ていこう。


秀吉は秀頼が生まれると、甥の関白・秀次を邪魔者扱いにして切腹させると、秀次の妻子と側室など数十名を惨殺した。


茶々をはじめ豊臣家の人々は、秀吉の死後すぐには、家康を中心とした五大老に頼ろうとしていた節がある。


秀吉は遺言で、自分の死後に茶々と家康の婚姻を結ぶよう言い残していたという資料が興福寺に残されている。


秀吉は生前、秀頼の正室に徳川秀忠と茶々の妹・江との間にできた娘・千姫を迎えた。


秀吉はさらに豊臣家と徳川家の婚姻関係を深めるために、家康と茶々の結婚を望んでいたというのである。


つまり豊臣家と徳川家が手を結べば安泰であると、秀吉も豊臣家の人々も考えていたのである。


そして京都の御所を中心に、豊臣家を五大老と五奉行が支える政権を理想としていた。


ところが家康の考えは、残念ながら彼らとは別のところにあった。


家康は若い頃から鎌倉に幕府を開いた「源頼朝」を尊敬し、「吾妻鏡」を愛読していた。


家康は頼朝のように、京都から遠く離れた江戸に「武家政権」を築くことを目指していた。


平家の平清盛はかつて、西日本を中心に貿易と商業で栄えさせる中央集権体制、いわゆる重商主義の政策をとった。


しかしこの政策を推し進めて行くと、貧富、地域格差が増大して行くが、東日本は取り残された。


そのために源氏の頼朝は、鎌倉に幕府を開いて農業を基盤とした地方分権による「重農主義」を行っている。


全体的に経済成長は鈍化するのだが、貧富や地域の格差は減少する。


商業が盛んになって交易が増えれば、それにともなってトラブル、いさかいも多くなる。


その最たるものが当時の戦国時代であった。


日本は室町から戦国時代にかけて、人口増加とともに、急激に一人当たりのGDPが増加している。


当時は海外とも盛んに交易が行われたが、その結果、鉄砲などの武器も多量に製造され、日本各地で紛争が増えた。


徳川家康は関東に移封されると、家臣たちに数万石づつを与え、重農主義による地方分権の壮大な実験を行っている。


徳川家臣たちは争うようにして新田開発に乗りだし、耕地面積が一挙に増大している。


家康は互いに競わせることで、重農主義による地方分権の実験を成功させたのである。


一方、貿易で大きな利益を上げていた西日本の大名たちは、秀頼を祭り上げて引き続き豊臣家を支えようとする。


関ヶ原の合戦で家康と石田三成が激突するが、これは根本的には西軍と東軍の主義主張の相違が原因である。


日本は何度か、この東西が対立するという歴史を繰り返してきている。


関ヶ原の合戦の原因は茶々と北政所の対立などと矮小化され、歴史が論じられてきた。


茶々が悪女であったかどうかなどは合戦の原因とは全く無関係なのである。


あえていえば、秀吉が家康とは全く主義主張が違うのに、そのまま放置した事が最大の原因である。


平清盛が源頼朝を殺さずに伊豆へ流罪したために平家が滅んだのと似ている。


関ヶ原の合戦で勝利した家康は、関東で成功した重農主義による地方分権を全国に拡大させようとする。


大坂城に集った浪人たちが最後の抵抗を見せた大坂夏の陣で、茶々と秀頼は自害する。


豊臣家を完全に葬り去った家康は、安心したかのように翌年に逝去する。


家康の政権を引き継いだ徳川秀忠は、忠実に家康の構想を引き継いで平和な江戸時代が実現する。


家康以後の将軍たちは「重農主義」を徹底するために鎖国政策をとっている。


日本は260年間に平和な時代を享受したが、西洋文明からは大きく遅れをとった。


茶々や秀頼は、江戸時代に人々が持つ不満解消のためのターゲットにされたのである。


明治維新は重商主義を唱える西国の、関ヶ原の合戦の敗者であった毛利氏と島津氏が中心となって実現した。


茶々の言動を純粋に分析してみれば、子どもをなんとか守りたいと願う、母親の姿が浮かび上がってくるのである。


茶々が悪女であったかどうかなどを問題にすることは、日本史を矮小化して歴史の大きな流れを見落とすことなるのである。


日本の将来を考える上でも、家康と茶々の時代の研究をさらに進めていくことは有意義である。


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