大谷吉継は関ヶ原の合戦で裏切り者が続出する中、石田三成との信義を貫いて戦い、最期は自害した。


大谷吉継の生涯を詳しく見ていこう。


大谷吉継の出生については諸説あるが、1565年永禄8年に六角氏の旧臣・大谷吉房の子として生まれたとする説が有力である。


吉継の通称は紀之介で、最終の官途は刑部少輔で、大谷刑部とも呼ばれている。


吉継の母が大政所または高台院の縁故者であったが、吉継は石田三成の推薦を受けて豊臣秀吉に取り立てられて小姓となっている。


やがて三成の取り成しで、越前敦賀5万7千石の領主となって軍奉行にまで出世した吉継は、三成と固い友情で結ばれ何でも言い合える友となっている。


しかし若くして吉継はハンセン病に罹患して、病状は次第に悪化していく。


ハンセン病は現在では感染力の弱い事が知られているが、当時は感染者に近付くことも忌避された。


そんな中、吉継と三成はある時、連れだって千利休の茶会に出席する。


茶の回し飲みで先に飲んだ吉継が、あやまって鼻水を茶碗の中に落としてしまう。


しかし三成は何事もなかったように、その茶を飲み干したという。


この三成の振る舞いに感動した吉継は、三成とは生死をともにする事をこの時に誓ったと言われている。


秀吉は自らの死期を悟ると、五大老・五奉行を設置して、秀頼の行く末を皆に託した。


1598年慶長3年、豊臣秀吉が死去すると、豊臣家と徳川家康との仲が険悪となる。


翌年に秀吉の盟友で五大老の一人・前田利家が逝去する。


すると福島正則や加藤清正などの豊臣家臣団の武断派諸将と、三成ら文治派諸将との対立が先鋭化する。


正則らは三成襲撃を企てたため、家康が中に入って、三成は奉行職をとかれた。


三成が佐和山城に隠退させられたために、家康が大きく勢力を伸ばした。


1600年慶長5年、上杉討伐のために家康が挙兵する。


吉継は家康にしたがって行動をともにしたが、途中から三成に何度も使者を送って三成も家康に従うように説得している。


すると三成は相談があるからと、吉継に佐和山城へ立ち寄るように伝えてきた。


一抹の不安を感じながら佐和山城を訪れた吉継を、三成は喜んで迎えた。


そして二人きりになると三成は、盟友・吉継に家康打倒のために挙兵する計画を打ち明けるのである。


再三説得を続けてきた吉継は、三成を翻意させることが無理だと知ると、家康と戦う決意を固めた。


戦うからには勝利を目的とした吉継は、佐和山城での軍議で三成ら諸将に対して次のような厳しい発言をしている。


「英知才覚においては三成に並ぶ者はない。」


「しかしいかんせん三成には人望がない。」


「家康は250万石におよぶ大大名である。」


「わずか19万石あまりの三成が戦える相手ではない。」


「ここは西軍の総大将には毛利輝元殿にお願いすべきだ。」と吉継は訴え、諸将らの同意を得ている。


三成らは当初、家康を小牧・長久手付近で迎え撃つ計画を立てた。


ところが岐阜城がわずか1日で東軍に陥落させられたために、急遽関ヶ原で戦うことになる。


1600年慶長5年9月15日、関ヶ原の合戦の当日、吉継は松尾山に布陣した小早川秀秋が寝返ることを予想して、松尾山のふもとに陣をしいた。


さらに脇坂安治を小早川軍を牽制出来る位置に配置している。


吉継は病状が悪化して、ほとんど失明状態で軍の指揮をとっている。


関ヶ原の戦いは当初、吉継らの奮戦で西軍有利で推移していた。


ところが小早川秀秋が寝返って大谷軍の背後をついたことで、戦況は一変する。


さらに小早川軍を牽制するはずであった脇坂軍まで寝返ったことで、大谷軍は総崩れとなった。


最期を覚悟した大谷吉継は、側近の湯浅五助に「我が首を敵に渡すな」と叫ぶと、切腹して果てたという。


自害した吉継の首は湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかったという。


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