武田勝頼は長篠・設楽が原の戦いで織田・徳川連合軍に敗れると、劣勢を挽回するために、北条氏政と同盟を結び、氏政のまだ14歳の妹・北条夫人を正室に迎えた。


武田勝頼と北条夫人のその後を詳しく見ていこう。


1575年天正3年、武田勝頼は長篠・設楽が原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍に大敗を喫した。


近年の研究で、この設楽が原の戦いでは、武田の騎馬隊や、織田軍の鉄砲三段打ちはなかったとされている。


合戦、特に設楽が原のような野戦の場合、兵数差でほぼ勝負が決するとされている。


そのため3万8千人の信長・家康連合軍に対して、武田勝頼は半数以下の1万5千人の軍勢で戦ったために負けたと言われている。


それはともかく武田信玄の後を引き継いだ勝頼だが、甲州金の産出量が激減するなどして、武田軍の軍事力は目に見えて衰えていたのである。


勝頼は織田信長の養女の遠山夫人を正室に迎え、嫡男・信勝をもうけていた。


しかし遠山夫人は信勝を生むと産後の日だちが悪く亡くなったために正室は長く不在であった。


32歳の武田勝頼は起死回生の策として小田原の北条氏政と同盟を結ぶと、また14歳の氏政の妹・北条夫人を正室に迎えた。


彼女は名前がわからないために、北条夫人、または小田原御前と呼ばれている。


18歳もの歳の差が有りながら、勝頼と北条夫人は仲睦まじい夫婦として、短いが幸せな時を躑躅が崎の館で過ごしている。


ところが1578天正6年、上杉謙信が亡くなると、後継者争いのため上杉家中に内紛が勃発する。


謙信は生涯不犯を貫いたために子供がおらず、北条氏政の子・上杉景虎と、謙信の姉の子・上杉景勝を養子に迎えていた。


つまり北条夫人の兄が上杉景虎で、当初勝頼も景虎を支援していた。


ところが景虎が劣勢になると勝頼は景虎を見放して景勝を応援する。


そのため景虎は後継者争いに敗れたため北条氏に逃れる途中で、家臣の裏切りにあって自害している。


景勝が上杉家の当主となったが、さらに勝頼は上杉家との関係を深めるために妹の菊姫を景勝に嫁がせている。


しかしこの勝頼の裏切りに激怒したのが北条夫人の兄・北条氏政である。


氏政は武田氏との同盟関係を破棄するとともに、北条氏と武田氏はたちまち敵対関係となった。


この時に勝頼は北条夫人に小田原へ帰るように説得したが、北条夫人は首を決して縦には振らなかった。


武田家の菩提寺・恵林寺の快川和尚は北条夫人が、若く気品溢れた毅然とした女性であった、と書き残している。


戦国時代は、身内や古くからの家臣であっても、落ち目になると次から次へと裏切っていく。


穴山梅雪や勝頼の姉婿の木曽川義昌までもが裏切ったために、勝頼と北条夫人はわずか40名ほどで天目山に追い込まれて行く。


勝頼はこの時にも北条夫人に、実家の北条氏に帰るように諭している。


しかしこの時も北条夫人は強く拒んだ。


そしていよいよ最期の時を迎えると、自分の黒髪を一筋切り落とすと、供の者に次の辞世とともに手渡し、小田原へ伝えるように頼んでいる。


「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき

思いに消ゆる 露の玉の緒」


介錯を頼まれた家臣が、夫人のあまりの美しさにためらっていると、北条夫人は短刀で自らののどを突き刺した。


それを見た武田勝頼は、北条夫人をしっかりと抱き寄せたという。


19歳の北条夫人は武田勝頼とともに、天目山で果てたのである。


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