武田勝頼は信玄の死後、駿河や三河で徳川家康と領地争奪戦を繰り広げた。


その勝頼のターゲットとなったのが徳川家康の嫡男・松平信康が城主を務める岡崎城であった。


武田勝頼と松平信康のその後を詳しく見ていこう。


徳川家康は武田信玄が死去したといううわさが広まると奥三河への侵攻を開始する。


本来は家臣であったが武田方に寝返っていた奥三河の奥平定能・信昌親子を調略する。


家康は長女亀姫を信昌と婚約させて奥平氏を味方に引き戻している。


そして武田方の長篠城を攻略すると奥平親子に与えて守備させている。


奥平親子の寝返りを知った勝頼は激怒して、1万5千の兵士で長篠城を取り囲んだ。


わずか500人で守備していた奥平親子だが、鳥居強右衛門が命懸けで援軍の到着を知らせたため、長篠城を守り抜いている。


一方の武田勝頼は忍びや歩き巫女を徳川領内に潜入させて、徳川家臣を調略している。


勝頼はまだ若く領主としては未熟な家康の嫡男・信康が城主を務める岡崎城下をターゲットにした。


若いが勇猛果敢だとうわさされる松平信康を、勝頼はやはり必ず倒さなければならない宿命のライバルだと考えていたのかも知れない。


武田方の歩き巫女や忍びの者は、岡崎町奉行の大岡弥四郎をはじめ、数十名の徳川家臣を豊富な甲州金で武田方に寝返らせている。


また武田方の歩き巫女は、唐人医師の減敬を通じて瀬名や信康とも何らかの接触を持ったようである。


大岡弥四郎は瀬名と信康を殺害して岡崎城に勝頼を迎え入れる計画を立てたが、露見して処刑されている。


1575年天正3年、勝頼は織田・徳川連合軍と設楽が原の合戦で戦うが、大敗する。


結局、武田軍は多くの家臣が織田・徳川方に寝返ったために弱体化していく。


没落した武田軍との勝敗がほぼ決した1579年天正7年、家康は突如として瀬名と信康を処刑している。


大久保彦左衛門忠教が書いた「三河物語」では信康の正室・五徳が、父親の信長に讒言したため瀬名と信康は信長の命令で処刑されたとされている。


ところが近年の研究では、信長は家康に二人の処刑を命令していないとされ、家康が自ら判断して実行したとされている。


やはり瀬名と信康は武田が放った歩き巫女や忍びに何らかの形で接触していたと思われる。


つまり瀬名と信康は武田の歩き巫女と忍びの罠に、まんまとはまってしまったのである。


武田との勝負がほぼ決着した段階で、家康が大岡弥四郎事件や武田方と内通した責任を、瀬名と信康に取らせたと考えるのが自然なように思われる。


瀬名は信康の命だけは救いたい一心で、のどを短刀で突き刺して自害したといわれている


だが、瀬名の願いも虚しく、信康も続いて自害している。


武田勝頼が織田軍に追われ、天目山で自刃するのは二人の死から三年後である。


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