瀬名はお万が徳川家康の子供を孕んだことを知ると、お万を裸にして木に吊るして折檻したと言われている。


瀬名がお万を本当に折檻したのか、また家康はなぜお万の子を嫌ったのかなど、お万と瀬名には謎が多い。詳しく見ていこう。


お万は三河の池鯉鮒神社の神職・永見氏の娘だと言われている。


瀬名の侍女であったお万を、三方ヶ原の合戦で大敗を喫して岡崎城に帰還した家康が手をつけたという。


戦に負けて錯乱状態の家康が、湯殿で背中を流すお万を見て手込めにした。


やがてお万は家康の子供を妊娠するが、それを知った瀬名が激怒したという。


瀬名は懐妊したお万を松の木に吊るして折檻して放置したが、夜中に家康の家臣に救いだされたというのである。


やがてお万は男の子を出産するが、家康は自分の子供かどうか疑って面会もせず、名前も付けずに放置したという。


しかしこの当時、家康は浜松城で暮らしていた。


そのため岡崎城に住む瀬名がお万を折檻したというのは辻褄が合わず、作り話の可能性が高い。


ただ子だくさんの家康が、瀬名の生前中にはほとんど側室の子供を作らなかったところから、瀬名が嫉妬深かったのは本当のようである。


お万が育てた子供が三歳になった時、見かねた異母兄弟の松平信康が、仲に入ってやっと父子の対面が実現した。


家康はギギという魚に似ているからと、お万の産んだ男の子の名前を於義丸と名づけている。


ところがまもなく瀬名と信康は家康の命令で処刑されるのである。


この瀬名・信康事件にも様々な説が存在するが、いまだに謎の部分が多い。


それはともかく、於義丸は11歳で人質として豊臣秀吉の養子に差し出され結城秀康と名乗っている。


のちに結城秀康は松平姓を名乗ることを許されて、越前松平家75万石の祖となっている。


お万は息子とともに福井で暮らしたが、秀康は1607年慶長12年、34歳の若さで急死する。


そのためにお万は秀康の死を悲しんで家康の許可なしに出家するが、咎めはなかった。


お万は1619年元和5年に72歳で北ノ庄において死去し、孝顕寺に葬られた。


なお、松平秀康の死因をめぐっては様々な説が存在するが、家康に毒殺されたという説も根強く唱えられている。


秀康は武勇にも優れ、関ヶ原の合戦で家康が勝利するが、まだ豊臣家が存続する中、多くの大名たちから支持されていたという。


また豊臣家の養子であったことから、淀君や豊臣秀頼との交流も多かったという。


徳川幕府の重臣・井伊家には家康の命令によって秀康を毒殺したという言い伝えも残っている。


徳川家康が家柄の正しい二代将軍・徳川秀忠を、家柄の低い兄の秀康が脅かす可能性があると考えたかも知れない。

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