本多忠真は三方ヶ原の合戦で徳川軍が窮地に追い込まれると、甥の忠勝らを救うために殿軍を買って出て、討ち死にした。


本多忠真の最期を詳しく見ていこう。


本多忠真は徳川家康の祖父・松平清康に仕えた武将・本多忠豊の次男として三河国額田郡蔵前に生まれた。


兄には本多忠勝の父・忠高がいるが、本多忠真は槍の名手として知られた。


1545年天文14年の三河国安祥城攻めにおいて父・忠豊が清康の身代わりとなって討ち死にしている。


続いて1549年天文18年の安祥城攻めで兄・忠高が討死する。


そのため忠真は兄嫁とその子・鍋之助(のちの本多忠勝)を岡崎に保護し、読み書を教えて一流の武将に育て上げた。


1560年永禄3年、桶狭間の戦いの前哨戦である鷲津砦での攻防戦で、初陣の忠勝を補佐した。


この際、忠勝が織田方の武将・山崎多十郎に討ち獲られそうになったときに、忠真は槍を投げつけて窮地を救っている。


翌1561年永禄4年、長沢城攻略に参加した忠真は、敵兵を突き倒して首を取るよう忠勝に促した。


すると忠勝は「何で人の力を借りて武功を立てん。」と敵陣に突撃して首を取ってきたという。


忠勝はその後も勇猛果敢な武将に成長して「徳川四天王」の一人に数えられている。


その後も忠真は忠勝の補佐的な役割として、数々の合戦に従軍した。


特に1561年永禄4年に尾張国石ヶ瀬川の戦いで水野信元との合戦で戦功を立て、1563年永禄6年に三河一向一揆の際には家康方として岡崎城に赴いている。


1572年元亀3年12月22日、本多忠真は三方ヶ原の戦いで、退却の際に自ら殿軍を買って出ている。


徳川軍が不利な状況のために、甥っ子の忠勝らを救うために忠真は旗指物を左右に突き刺し、追走する武田軍に斬り込み、討ち死にした。


この戦いでは徳川家康を救うために、夏目広次が身代わりとなって同じく討ち死にしている。


徳川家康は武田信玄の持病が悪化したため、九死に一生を得ている。


のちに関ヶ原の合戦で活躍した本多忠勝は、伊勢桑名十万石の大名に出世したが、10年後に没している。


一方、忠真の嫡男であった菊丸は父の命で家康を援護しつつも無事に浜松城に退却出来たが、後に父を三河に葬ったあとに出家したと言われている。


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