夏目広次は徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原の合戦で戦死した。


夏目広次の最期を詳しく見ていこう。


夏目広次は松平家に古くから仕える譜代家臣の夏目吉久の長男として1518年永正15年に生まれている。


広次は1561年永禄4年に家康が今川氏と戦った時に戦功をあげている。


続く1562年永禄5年の三州八幡の戦いで広次は、今川方の攻撃で総崩れとなった徳川軍の殿軍として、家康を危機から救っている。


家康は広次にこの時の功績を称えて「備前長光」の脇差しを与えた。


ところが翌年に起こった「三河一向一揆」で広次は一揆側について家康軍と戦っている。


結局、広次は家康側に捕縛され、断罪にされるところであったが、家康の配慮で帰参を許されている。


広次は以前と同じく三河・遠江の郡代に復帰したが、この時の家康の配慮を一生涯忘れることはなかった。


1572年元亀3年、徳川家康が上杉謙信と同盟を組もうとしたことに激怒した武田信玄は、2万7千の兵士と徳川領内に攻め込んだ。


一方の家康軍8千は、織田信長の援軍の佐久間信盛軍3千とともに武田軍と対峙する。


12月22日、家康は信玄とたった3分の1程度の兵力で三方ヶ原で、真正面から戦うことになる。


信長の援軍として参戦していた佐久間信盛は早々に退散したと言われている。


浜松城を守っていた夏目広次は、徳川軍が敗色濃厚となったのを見ると、家康のもとに馳せ参じて、退却するよう進言する。


しかし家康は聞く耳を持たずなおも敵陣へ突撃しようとするので、広次は刀のみねで家康を失神させた。


そして家康の鎧兜を身につけた広次は、家康の馬の尻を強く打って浜松城へと向かわさせると、25騎あまりを引き連れて家康の身代わりとなって武田軍の追っ手に突撃する。


「我こそは徳川三河守なり、甲斐のものども、腕に覚えあらばかかって参れ」と大声で叫んで広次は突進したという。


広次が武田勢を食い止めたために、家康は無事浜松城へ帰還している。


広次は家康の身代わりとして奮戦したが、最期は力つきて敵に首級をあげられている。


家康はこの三方ヶ原の合戦で大敗北を喫し、数千の兵力と多くの家臣たちを失った。


のちに家康は三方ヶ原の合戦の慰霊碑を建てたが、25歳も年上だったら夏目広次の墓を建立してその死を痛んだと言われている。


夏目広次の子孫は広次の活躍でその後も徳川幕府に取り立てられたが、明治時代の文豪・夏目漱石も夏目氏の子孫だと言われている。


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