武田家は信虎・信玄・勝頼の三代のうちで、盛衰を繰り返して信玄の死後わずか9年で戦国大名としての武田家は滅んだ。


武田三代を詳しく見ていこう。


武田信虎は1494年明応3年、もしくは1498年明応7年、甲斐源氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれた。


信縄の後を継いだ信虎は、最初は名君と言われる立派な後継ぎであった。


信虎は甲斐国の兵力を整えて国力をもり立て、甲斐国を統一するなど勢力を伸ばし戦国大名の仲間入りをしている。


ところが世の中が下克上の戦国時代となって乱れると、信虎も徐々に暴君となり、忠言した家臣たちを手打ちにすることが多くなった。


信虎は1521年大永元年、嫡男・信玄をもうけた。


しかし信虎は弟の信繁が生まれると信繁を寵愛して、嫡男の信玄を疎んじた。


手打ちにされた家臣の数が増えるに従い、さすがに古くからの重臣たちも信虎の追放を考え始めた。


そしてついに家臣たちは信虎に嫌われている嫡男の信玄を担ぎ上げ、信虎を今川家へ追放した。


20歳で家督を継いだ信玄は、家臣たちの信頼を得て、信濃国へ攻め入って領地を拡大している。


そして信玄は信濃の有力者の諏訪氏、小笠原氏、村上氏を次々に撃破している。


敗走した村上氏と小笠原氏が、越後の上杉謙信に助けを求めたため、北信濃を巡る以後5度10年に渡る「川中島の戦い」を信玄は謙信と繰り広げている。


信玄は今川氏や北条氏と甲相駿三国同盟を結び、嫡男義信には今川義元の娘を正室に迎えた。


今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、国土を山に囲まれた信玄は、交易に便利な海を求めて東海地方の今川領へと進出する。


信玄は今川攻めに反対した義信を廃嫡にして、勝頼を後継者にしている。


1573年元亀4年の三方ヶ原の合戦では徳川家康・織田信長連合軍を撃破した。


しかし信長包囲網の一角の朝倉義景が勝手に越前に兵を引き上げたために信長掃討作戦は失敗に終わる。


失意の中、帰国の途についた信玄だが、持病が悪化して信州伊那郡駒場の地で53歳の生涯を閉じた。


後を継いだ勝頼は信玄と同じく領地拡大を目指した。


父の信玄さえ落とせなかった高天神城を落とした勝頼は、一時的には信玄以上の猛将だと評価されている。


しかし鉄砲の原材料を入手する堺などを信長に押さえられた武田軍は、1575年天正3年の長篠・設楽原の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗する。


1万人以上の兵士を失い、多数の重臣を亡くした勝頼は、急速に求心力を失った。


勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城への本拠地移転により領国維持を図ろうとする。


しかし織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、1582年天正10年3月11日、勝頼は嫡男・信勝とともに天目山で自害した。


これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は、信玄の死からわずか9年で滅亡した。


武田家が急速に力を失った背景には、豊かな産出量を誇った甲州金が急激にとれなくなったなど、様々な要因が関係しているようである。


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