久松源三郎勝俊は徳川家康の異父弟だが、武田方の人質となったために逃亡する際、凍傷で足の指をすべて失った。
久松勝俊の生涯を詳しく見ていこう。
勝俊は1552年天文21年、父・久松俊勝と徳川家康の生母・於大の方との間に尾張国阿古居城で生まれている。
於大の方は俊勝との間に三男三女をもうけたが、勝俊と康元は生年月日が同じなため双子だったと言われている。
勝俊が8歳の時に、家康が阿古居城を訪れて、生母・於大の方と涙の対面をしている。
兄弟のいなかった家康は、一度に3人もの兄弟が出来たことを心から喜んだという。
そして康元、勝俊、定勝の三兄弟は、家康から松平姓を名乗ることを許された。
そのため勝俊はのちに松平康俊と名乗っている。
勝俊は1563年永禄6年に家康の命令で今川氏真の人質として、駿河国へ赴いている。
ところが家康は武田信玄と密約を結んで、今川侵攻を開始する。
1568年永禄11年に武田信玄が駿河に侵攻すると、今川方の三浦与一郎が武田方に寝返り、17歳となった勝俊を連れて信玄のもとに赴いた。
信玄は喜んで三浦氏を迎え入れ、今川氏の人質となっていた勝俊を、勝手に甲斐国へ連れ去って人質にしている。
本来の武士道では、勝俊は徳川家に戻されるべきだが、武田氏はこれを無視した。
そのため家康は1570年元亀元年に服部半蔵に勝俊救出を命じている。
服部半蔵は忍びの者を使って勝俊を救い出す事に成功する。
しかし雪道を裸足で駆けた勝俊の足の指は、すべて凍傷にかかってしまった。
足の指をすべて失った勝俊は、家康から長年の苦労を労われ、名刀などの宝物を与えられた。
勝俊を奪い返されたことを知った信玄は、いよいよ徳川領への侵攻準備を開始する。
徳川家康は三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫するが、信玄が急死したために家康は九死に一生を得ている。
1584年天正12年、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉は和睦の条件に、家康に勝俊の弟・定勝を人質に差し出すよう求めた。
定勝を送る行列まで用意されたが、母親の於大の方が家康に行列の中止を泣いて頼み込んだ。
於大の方は勝俊が足の指をすべて失った例をあげ、定勝まで人質にする事の無慈悲を家康に訴えた。
そのため家康は我が子の結城秀康を代わりに、秀吉に養子という名の人質に差し出している。
約七年あまりの人質生活ですっかり体が弱った勝俊に家康は、温暖で気候のよい駿河国の久能城を与え、勝俊に静養する事をすすめた。
しかし久能城に移ってわずか三年あまりで久松勝俊は、1586年天正14年、34歳の若さで逝去した。
現在、久松源三郎勝俊の墓は、静岡県浜松市中区の「西来院」にある。
勝俊には男の子がいなかったが、於大の方の願いで、於大の方の弟・水野忠分の子・勝政が婿養子となって後を継いでいる。
勝俊の子孫はのちに大坂城番となって、下総多古藩1万2千石の大名となり、明治維新後は子爵に列している。
また勝俊の兄弟のうち、康元は下総関宿四万石、定勝は伊勢桑名11万石の大名となっている。
久松勝俊の人質としての苦難と犠牲が、子孫や兄弟たちの出世と繁栄に貢献したとも言えるのである。
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