織田信長は実弟・織田信行や妹婿の浅井長政に裏切られたのをはじめ、松永久秀など数多くの武将たちに裏切られ、最期は明智光秀の謀反によって本能寺で討たれている。


信長は「天下布武」をスローガンに、日本を一つの国に統一しようと考えていた。


さもなければやがて日本は、スペインやポルトガルの属国になってしまうという危機感を信長は持っていた。


しかし当時のほとんど人々は、越前や越後などの領国が国であると考えていたため、家臣との考え方に相違が生まれた。


そのため天才信長の考え方が理解出来ずに裏切ったのである。


信長がなぜ何度も裏切られたのかを詳しく見ていこう。


織田信長は父親の信秀亡き後、尾張統一に向けて邁進している時に、実弟の織田信行に二度も裏切られている。


信行の母は信長と同じ土田御前であったが、二度目の謀反を起こそうとした信行を信長は、騙し討ちにして殺害している。


1570年元亀元年、信長は越前朝倉攻めで、妹・お市の方の婿である浅井長政に裏切られて、金ケ崎の退き口で危機に陥った。


この時はお市の方が信長に長政の裏切りを事前に教えたために、信長は九死に一生を得ている。


お市の方は数少ない信長の理解者であった。


信長はその人の出身地や過去にはこだわらず、才能があれば採用してどんどんと出世させている。


現代日本でもまだ、終身雇用か能力主義かと雇用形態が問われているが、信長はすでに四百年前に能力主義を採用した。


そのためにほとんどの人々が信長の考え方についていけなかったようだ。


このような状況下で、問題が起こらないはずはなかった。


松永久秀も信長を裏切った武将の一人で、久秀は主君を殺し、三好三人衆と組んで将軍・足利義輝を殺害するなどの悪行を尽くしていた。


ところが信長は一度裏切った久秀を厚遇するが、結局石山本願寺攻めで久秀は信長を再び裏切って自害している。


久秀は信長が喉から手を出すほど欲しがっていた茶器・平蜘蛛の釜に火薬を詰めて爆死している。


1578年天正6年には荒木村重に続いて中川清秀と高山右近が謀反を起こした。


当時は戦国大名が越前や越後、遠江や近江といった領国を、独自の法律や経済政策によって治めていた。


そのためそこに属する人々も、領国を我が国と考えていたため、つまり越後の人にとって越前は外国であった。


信長の多くの家臣たちは、ある程度の領土を手に入れて大名になると、次には信長と戦ってでも自らの領地を守ろうとして裏切ったのである。


一方の天才信長はキリスト教宣教師から地球儀を見せられ、地球は丸いことをすぐに理解したという。


そして小さな島国が日本だと知らされると信長は、このままだと日本はいずれスペインやポルトガルに支配されるという焦燥感にかられた。


当時の日本は世界の銀の3分の1を産出する魅力的な国で、スペインやポルトガルは日本征服の機会を、虎視眈々と狙っていた。


信長が天下布武を掲げて、あらゆる既成勢力と戦いながら、天下統一を急いだのはそのためであった。


信長の考え方を理解出来た家臣は、ほとんどいなかったが、焦燥感にかられた信長はあまりに苛烈に、家臣たちに日本の統一を急がせた。


そのため多くの家臣たちは信長を裏切ったというよりも、信長の考えについていけずに脱落した。


明智光秀はたまたま信長が少数の供の者と本能寺でいる時に、大軍を率いて京都のそばにいたために犯行に及んだ。


光秀が信長を討ち取れたのは、全くの偶然だと言っても過言ではない。

もしも光秀が本能寺の変を起こしていなくても、いずれ光秀は信長を裏切っていただろう。


家臣にとっては理解できない行動を繰り返す主人に仕えるほど、精神的に疲れることはないだろう。


どちらかと言えば神経質な光秀は、そんな信長に仕えていくことに疲れ果てたのかも知れない。


織田信長は本能寺で明智光秀に討たれなくとも、多くの家臣たちに裏切られ、いずれ誰かに討たれていたに違いない。


本当は信長こそ現代日本に最も必要なリーダーである。


天才信長の不幸はあまりにも早く生まれ過ぎたということなのだろう。


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