お市の方は政略結婚で浅井長政と結ばれたが、のちに長政は織田信長と対立して滅ぼされている。


お市の方と浅井長政のその後を見て行こう。


織田信長は1567年永禄10年の正月、天下布武を掲げて上洛の決意を固めた。


京都への道中に位置する近江の浅井長政と同盟を望んだ信長は、長政に妹・お市の方を政略結婚で嫁がせることを決意する。


信長の重臣・柴田勝家をはじめ多くの家臣たちが、戦国一の美女と称えられたお市の方に憧れていたと言われている。


そのため長政は喜んでお市の方との縁談を受け入れて信長と同盟を結んだ。


長政の父・久政は凡将で、長政に竹生島に幽閉されていた。


その後小谷城に戻され強制的に隠居させられていた久政が長政に、婚姻に条件をつけさせた。


それは長く同盟関係にある朝倉氏を信長が敵としないというものであった。


この年の4月、お市の方は小谷城に輿入れをしている。


この時、信長は長政に「そちを本当の弟と思う」との書状を送っている。

翌1568年永禄11年に信長と長政は佐和山で初めて顔を合わせている。


しかし父の久政や、長政の二人の側室小鈴と小君が、お市の方の暗殺を企んで長政を驚愕させている。


側室の小鈴は侍女に毒を膳に盛らせてお市の方を殺害しようとした。


長政が小鈴を斬殺させようとしたが、心根のやさしいお市の方は長政に小鈴の助命を嘆願している。


ところで足利義昭を奉じて無事に上洛を果たした織田信長だが、やがて両者は対立する。


将軍義昭は武田氏や朝倉氏に書状を送って「信長包囲網」を構築していく。


そして反信長の姿勢を強める朝倉義景に業を煮やした信長は、朝倉討伐の兵を挙げた。


元亀元年4月、信長は長政には無断で越前の朝倉領へ侵攻する。


これは明らかに信長の浅井氏に対する同盟の条約違反であった。


信義を重んじる長政にとって信長の行為は、到底許すことが出来ない所業であった。


長政は同盟を一方的に破った信長を看過ことは出来ず、金ヶ崎に攻め入った織田軍に対して兵を挙げた。


そのため信長は「金ヶ崎の退き口」といわれる危機に迎えるが、なんとか脱出して京へ逃げ帰っている。


危機を脱した信長は、兵を整え、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍と姉川の戦いで激突する。


戦いは徳川家康の活躍で、織田信長が勝利する。


信長は一乗谷の朝倉義景を攻め滅ぼすと、浅井長政の小谷城を包囲した。


長政は一緒に運命を共にしようとするお市の方を説得して、幼い子供たちとともにお市の方を小谷城から脱出させている。


お市の方と茶々、初、江の三人の女の子たちは、信長に保護され清洲城へ送られている。


しかし城から逃れた男の子の万福丸は見つけ出されて殺されている。


浅井長政は小谷城とともに1573年元亀4年、28歳で逝去した。


その後お市の方の三人の娘は、長女の茶々が豊臣秀吉の愛妾となって淀殿と呼ばれ、次女の初は京極高次の妻に、そして三女の江は江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の妻となるのである。


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