足利義昭は室町幕府の15代将軍だが、織田信長と対立して都を追われた。


しかし近年、明智光秀の新たな書状が発見されたため、義昭が本能寺の変の黒幕では、と話題となっている。


足利義昭の生涯を詳しく見て行こう。


足利義昭は1537年天文6年、室町幕府12代将軍・足利義晴の次男として生まれた。


そして大和の一乗院門跡となって覚慶と称した。


ところが1565年永禄8年に兄の13代将軍・足利義輝が松永久秀と三好三人衆といわれる三好長逸、三好政康、岩成友通に暗殺される。


松永久秀らは自分たちの意のままになる足利義栄を擁して、義輝の弟二人の抹殺をはかった。


そして覚慶の弟で相国寺の同じく僧侶であった足利周暠は三好一党に謀殺されている。


覚慶も捕らえられて幽閉されていたが、義輝の側近の細川藤孝に助け出されて近江に逃れた。


さらに越前の朝倉義景を頼った義秋は元服を済ませて足利義昭と改名している。


1568年永禄11年、従兄弟の足利義栄が三好三人衆に擁立されて14代将軍に就任する。


このころ明智光秀に織田信長を頼ることを勧められていた義昭は、いつまでも上洛しようとしない朝倉義景に見切りつけ、岐阜の信長のもとに身を寄せている。


織田信長は素早く上洛を果たし、義栄が病死したため、義昭は室町幕府の15代将軍に就任している。

当初義昭は信長を御父と呼ぶなど、無償で室町幕府再興に協力する信長に感謝していた。


ところが信長は足利義昭の将軍としての名前を利用して、遠国と交誼を結んで近隣の敵国を攻める「遠交近攻」という戦略を用いていた。


そして天下布武というスローガンを掲げながら、畿内の抵抗勢力を次々に従えていった。


室町幕府の将軍という名前は信長にとっては、まだまだ利用価値があったのである。


ところが義昭にも徐々に信長は自らの天下布武のために室町幕府を利用しただけだということがわかってくる。


義昭は信長を押し退けて将軍ぶりを発揮しようと、武田氏や上杉氏に書状を送るなどの政治活動を始めている。


すると信長は「殿中御掟」を義昭に突き付けて、行動を制限したことで、両者は激しく対立する。


すると義昭は浅井氏や朝倉氏に書状を送り、金ヶ崎の戦いで信長を危機に陥れるなど、「信長包囲網」を構築していく。


義昭は武田信玄にも書状を送り、信玄の上洛への決意を固めさせたと言われている。


信長が1572年元亀3年に「異見十七条」を義昭に突き付けて詰問すると、ついに翌年に義昭は挙兵した。


武田信玄をはじめ本願寺や、浅井・朝倉氏へ決起を呼び掛けた義昭だが、一貫性のない義昭を側近の細川藤孝らは見限って信長についている。


浅井・朝倉軍が信長に敗れ、武田信玄が上洛の途上で病死したため、信長包囲網が破綻する。


一度は信長と和睦した義昭だが、再び宇治の槇島で挙兵して信長に敗れ、京都を追放される。


そのため足利尊氏以来約150年の間続いた室町幕府は滅亡する。


放浪の末、足利義昭は毛利輝元を頼って、備後国の鞆に「鞆幕府」を樹立して信長への抵抗を続けた。


そんな中、1582年天正10年、突如として織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた。


2017年に謀反直後の明智光秀が、紀州雑賀衆の有力者に出した書状が新たに発見された。


その書状によれば、明智光秀は足利義昭を都へ戻すために雑賀衆へ助力を求めている。


そのため明智光秀が本能寺の変を引き起こした目的として、室町幕府再興説が近年は注目されている。


本能寺の変の黒幕について現在まで様々に論じられてきたが、足利義昭が本能寺の変の黒幕である可能性も十分に考えられるのである。


明智光秀を天王山の戦いで破った豊臣秀吉が天下を取ると、義昭を庇護する毛利輝元が秀吉傘下に加わった。


そのため足利義昭も秀吉の九州平定に助力している。


その後義昭は念願の京都への帰還を果たし、1588年天正16年には秀吉に従って参内して将軍職を辞して出家している。


足利義昭は豊臣秀吉の御伽衆に加わっていたが、1597年慶長2年に61歳で逝去した。


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