今川氏真と北条氏康の娘・早川殿は政略結婚によって結ばれたが、二人は戦国時代に60年間に渡って離縁せずに最期まで連れ添ってともに天寿を全うした。


今川氏真と早川殿のその後を詳しく見て行こう。


今川義元は、武田信玄、北条氏康と1554年天文23年、甲州、相模、駿河の甲相駿三国同盟を結んだ。


戦国時代を代表する三人が参加して顔を合わせたかどうかは不明だが、駿河の善得寺で調印式が行われた。


そして同盟締結と同時に三組の政略結婚を成立させた。


今川義元の娘・嶺松院が武田義信に、武田信玄の娘・黄梅院が北条氏政に、そして北条氏康の娘・早川殿が今川氏真へそれぞれに輿入れした。


早川殿の嫁入りは華麗なうえに壮大で、前代未聞の輿入れだったと「妙法寺記」に記されている。


早川殿は北条氏康の長女で生年は不祥だが、今川氏真はこの時、17歳であった。


早川殿の生まれた北条氏は、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏と区別するため、後北条氏とも呼ばれている。


ところが6年後に今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、三国同盟に暗雲が立ち込める。


武田信玄は徳川家康と今川領を同時に侵略する密約を交わし、1568年永禄11年に同盟を破棄して侵入した。


武田家の嫡男の武田義信は今川義元の娘・嶺松院を正室に迎えていたことから、信玄の今川攻めに反対した。


すると信玄は義信を廃嫡にして、今川氏真の妹である嶺松院を駿府へ送り返している。


早川殿と氏真は武田勢に駿府城を追われ、朝比奈氏の居城・掛川城に逃げ込んだ。


すると今度は家康が掛川城を包囲した。


早川殿の父・北条氏康は信玄が一方的に同盟を破ったことに激怒して、嫡男・氏政夫妻を離縁させて信玄の娘・黄梅院を送り返し同盟を破棄した。


信玄の娘・黄梅院は氏政との間に氏直など6人の子供をもうけていたため、ショックは大きく、数年後には二十代の若さで逝去している。


武田信玄はこの今川攻めで、義信と黄梅院の二人の子供を犠牲にしたのである。


今川氏真は家康と掛川城を去ることを条件に和議を結び、早川殿の実家である小田原へ移った。


日本史ではこの時点で、戦国大名としての今川氏は滅亡したとされている。


早川殿は氏真と小田原の早川という場所に住んだことから、以後は早川殿と呼ばれるようになった。


1571年元亀2年に北条氏康が亡くなると、早川殿の弟で嫡男の北条氏政が後を継いだ。


氏政は武田氏との同盟を復活させたが、早川殿は身内の裏切りに激怒して、氏真とともに徳川家康を頼った。


早川殿と氏真はその後、京都に移り住み、氏真は織田信長とも蹴鞠などを通じて親交を深めている。


武田信玄に続いて織田信長、そして豊臣秀吉がこの世を去ると、氏真は次男の高久を家康に仕えさせている。


早川殿と氏真は長男の範以とともに京都で質素だが幸せに暮らしたが、1607年慶長12年に範以が先立ってしまう。


そのため早川殿と氏真は次男の高久を頼って江戸に出ている。


そして早川殿は子供や孫たちに見守られながら1613年慶長18年、江戸に徳川幕府が開かれた年に逝去した。


さらに今川氏真は翌年に早川殿の後を追うようにして77歳で亡くなっている。


甲相駿三国同盟で結婚した三組の中で戦国時代に60年の間、最後まで添い遂げたのは、早川殿と氏真の夫婦だけであった。


所領を失い、国を追われた今川氏真と早川殿の夫婦だが、戦国時代に家族に見守られながら天寿を全うした人生は、それなりに幸せだったようである。

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