井伊直政は徳川四天王に数えらる戦国屈指の勇将だが、幼少から女城主・井伊直虎に英才教育を施された。


井伊直政の生涯を詳しく見て行こう。


井伊家は11世紀初頭から代々遠江井伊谷を治める国衆で、三河松平家よりも歴史のある名門家系であった。


直政は桶狭間の合戦の翌年の1561年永禄4年に、井伊直親の子として生まれている。


今川義元に臣従した直親だが、義元が信長に討たれると、直親は讒言によって徳川家に内通したと疑われ今川氏真に殺害されている。


氏真は直政の命も執拗に狙ったが、直政は出家して寺を点々として逃れたために危難を逃れた。


女領主となった養母・井伊直虎に保護された直政は、直虎から英才教育を施された。


やがて直政は家康に見出だされて徳川家臣となっているが、直政は家康の19歳年下であった。


井伊直政の初陣は1576年天正4年、家康が武田勝頼と遠州芝原で戦った16歳の時であった。


武田勝頼が天目山で滅びると、家康の家臣たちは皆、勇猛な武田家の遺臣を配下に欲した。


ところが酒井忠次が家康から武田家臣数百名の配分を任されると、井伊直政に武田旧家臣をすべてつけた。


榊原康政が半分でも我が配下にとしつこく忠次に訴えた。


しかし忠次は「若輩の直政にこそ精強な武田家臣は望ましい」と決して譲らなかったという。


井伊直政の一団は武田の勇将・山県昌景の軍団が赤備えであったのにならって、甲冑から馬具に至るまですべて赤一色に染められた。


その後直政の軍団は「井伊の赤備え」と呼ばれ、戦場で他のものを圧する働きを示した。


家康が関東移封となると直政は上野箕輪に12万石を与えられた。


直政の異例の出世に、直政は家康の男色の相手ではないかとの噂も流された。


家柄もよく、容姿や立ち振舞いも優れた井伊直政を家康はことのほか愛したのである。


豊臣秀吉が天下を取ると、家康を上洛させるために秀吉は母親の大政所まで人質に差し出した。


しかし家康はそれには及ばぬと大政所を送り返したが、その時に井伊直政を護衛につけている。


秀吉は喜んで直政を饗応したが、家康を裏切った石川数正を茶室に同席させようとした。


すると直政は秀吉を前にして「この数正は我が殿を裏切った臆病者。このような者と同席いたしたくはござらぬ」と堂々と言ってのけたという。


また北条氏の小田原攻めに従軍した直政は、豊臣秀吉の取り巻きが少人数であることに気付いた。


すると直政はすぐに「天下取りの絶好の機会到来。秀吉の首を取りましょう」と家康に進言した。


しかし家康は「すべからくこの世のことは天の与うるところに従うものである。」と直政の忠誠心は誉めながら諫めたという。


家康は常に家臣たちを誉めたが、ある時、秀吉は家康に家宝の茶道具を見せて自慢した。


そして秀吉は家康に「そちの自慢の茶道具は何だ」と尋ねた。


すると家康は「田舎者にて自慢の茶道具はござらぬが、我がために命をいとわぬ五百騎ばかりの家臣が我が宝」だと返して、秀吉の顔を羞恥で赤らめさせたという。


秀吉亡き後、関ヶ原の合戦でも直政は東軍の先陣として活躍した。


戦いは小早川秀秋の裏切りで西軍が総崩れとなった。


すると西軍の島津義弘は五百騎余りを率いて、突如として東軍の中央を突破して落ち延びようとした。


いわゆる有名な「島津の退き口」である。


すると直政はすかさず島津勢を追撃して、島津の殿軍、島津豊久を討ち取っている。


先頭に立って島津兵を追撃した直政だが、島津の狙撃にあって落馬した。


関ヶ原の合戦の活躍で直政は近江佐和山18万石に転封されている。


しかし合戦で負傷した右腕の鉄砲傷が原因で、井伊直政は関ヶ原の戦いの二年後の1602年慶長7年に42歳で逝去した。


直政の後は長男・直勝が継いで彦根城を築いが、病弱のため次男・直孝が家督を継いだ。


井伊直孝は幕閣で重きをなして30万石にまで加増され、幕府からの預かり分も含めて近江彦根藩35万石と称した。


その後幕末に彦根藩からは、安政の大獄を引き起こした大老井伊直弼が出たことは有名である。


井伊直政のような優れた家臣たちが、徳川家康を天下人に押し上げたのである。


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