和田義盛は起請文まで書いて味方する事を誓った一族の三浦義村が裏切って、北条義時に密告したため仕方なく挙兵を半日早めて出陣した。


和田義盛の最期を詳しく見て行こう。


和田義盛は北条義時の度重なる挑発に耐えかねてついに1213年建暦3年の5月3日に挙兵することを予定する。


「相州(義時)はなすことすべてが傍若無人」と義盛は周囲の者にその憤懣をぶちまけたという。


和田義盛は一族の三浦義村に起請文を書かせて裏切らないことを誓わせている。


作戦では御所の北門と西門を三浦義村・胤義兄弟が固め、和田勢が南門と東門から攻撃する事が決められていた。


ところが義村はあっさりと裏切って5月2日に北条義時に義盛が挙兵しようとしていることを密告した。


その時、義時邸では囲碁の会が催されていた。


義時は義村から密告を受けると、別に驚いた風もなく、ゆっくりと立ち上がると、烏帽子と服装を正すと、実朝のいる大倉御所に向かった。


同じく義村から義盛異変の情報を聞いた大江広元は酒宴を行っていた自邸から大倉御所に向かっている。


義村の裏切りを知った和田義盛は、仕方なく予定を早め、2日の午後に挙兵して出陣した。


和田義盛は150騎300人を三手に分けて、御所、義時邸と大江広元邸を襲撃させ「和田合戦」が始まった。


和田合戦の模様については「吾妻鏡」に詳細に記録されている。


しかし「吾妻鏡」が鎌倉時代後期に編纂された時、鎌倉に和田合戦に関する資料が乏しく、藤原定家の「明月記」を元に執筆された。


「吾妻鏡」によれば、合戦が始まると主のいない北条義時邸と大江広元邸はすぐに和田勢に蹂躙されている。


ところが三浦義村の裏切りで将軍実朝や妃の坊門信子、そして北条政子は御所から早々にそれぞれ逃れている。


このため和田義盛は将軍争奪戦にまず敗れるのである。


実朝は大江広元と鶴岡八幡宮のさらに山手で安全な法華堂に避難している。


この時点で、多くの御家人たちは北条氏と和田氏の私闘だと考え、どちらにも組しない態度を示した。


和田勢には土屋、渋谷、土肥、岡崎などの相模の御家人たちが加わった。


敵味方とも御所に将軍がいないことを知らず御所を中心に戦いが展開された。


少数ながら決死の和田勢は強く、将軍実朝を確保しようと大倉御所を取り囲んだ。


まず義盛の三男・朝比奈義秀が南門を数十騎で打ち破り南庭に達した。


北条方の武士たちは義秀のあまりの強さに見かけると皆逃げたという。


そんな中、義時の次男・北条朝時は義秀に勝負をいどみ重症を負っている。


実は以前に朝時は実朝の女官を誘惑したため、父の義時から謹慎を命じられていた。


ところが和田合戦が始まったために謹慎が解かれたのである。


朝時にとってはいわば名誉挽回のための決死の負傷だった。


南庭に達した朝比奈義秀だが実朝の姿がないことを知ると大倉御所に火を放ったために御所は炎上する。


日が暮れたために和田勢は一旦由比ヶ浜に引き上げた。


翌朝には義盛の妻の実家・横山党が加わり和田勢は3千騎にも達して軍勢は稲村ヶ崎にまで溢れかえった。


夜間に雨が降ったために応援軍は蓑笠を着ていたがそれらを積み上げると山のようになったという。


まだ多くの御家人たちが傍観していたために、息を吹き返した和田勢は北条泰時率いる幕府方との戦いを圧倒する。


義盛以下それぞれ一騎当千の強者が揃った和田勢に囲まれ、絶体絶命の窮地に陥った北条義時は大江広元と相談する。


そして将軍実朝の署名と花押を添えた御教書を作成した。


この御教書の威力は凄まじく、戦いを傍観する御家人たちに回覧させると、魔法のように雪崩を打って皆北条方に加勢した。


北条氏には加勢しなかった御家人たちも、将軍家のためには迷うことなく戦ったのである。


このため和田勢はたちまち将軍へ刃向かう謀反軍となり形勢は一気に逆転して和田勢は各所で敗退する。


和田義盛は最愛の四男・義直が討たれと知ると、しばらくは沈黙した。


そして突然大空に向かって泣き叫ぶと、たった一騎で敵の中に斬り込んで行った。


敵に囲まれた和田義盛は、最期に江戸能範の郎党に討ちとられた。享年67であった。


和田一族の首級は二百三十四にも及び片瀬川の岸にさらされた。


朝比奈義秀は五百騎と船六艘で安房へ逃れたとも、討ち取られたとも言われているが真相は不明である。


しかし最大のライバルで侍所別当の和田義盛を葬ったことで、北条義時がますます鎌倉幕府での執権の地位を磐石にしたことだけは確かである。


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