和田合戦から数年後、実朝は急に巨大な船を建造して中国の宋へ行こうと計画する。
実朝が中国行きを計画した理由は一体何であったのだろうか。詳しく見て行こう。
鎌倉は和田合戦で和田一族が滅亡すると、一見落ち着きを取り戻した。
北条義時は和田義盛が務めていた侍所別当と以前からの政所別当を兼務してさらに幕府での自らの権力基盤を固めた。
聡明な実朝は義時に逆らえば自分の命も危ういことを和田合戦から学び、将軍家は北条氏とは協調する姿勢を続けた。
臨済宗の開祖・栄西に師事していた実朝はある時二日酔いで体調を崩した。
それを知った栄西は中国から持ち帰った茶を煎じて実朝に飲ませた。
たちどころに二日酔いが治ったことに驚いた実朝は中国からの輸入品に興味を持つようになる。
当時栄西は中国の宋から仏教の一切経を取り寄せる事に苦労していた。
中国に二度渡った経験を持つ栄西は実朝に中国との交易の必要性を熱心に説いたに違いない。
実朝は平清盛が日宋貿易で巨万の富を築き、政権の礎を築いたことを学んでいた。
そして1216年建保4年、実朝は突然御家人たちに巨大な船を建造して中国へ渡る「渡宋計画」を発表するのである。
実はこの年、陳和卿という人物が実朝に面会を求め会っていたのである。
陳和卿は東大寺の大仏を鋳造した有名な中国の技術者である。
令和の今日でも残る奈良東大寺の大仏は何度か火災にあっているが、現存している大仏の大部分はこの陳和卿が鋳造したものである。
実朝の父・頼朝は平家が放火して焼失させた東大寺の大仏殿などを寄進して修復した。
頼朝は大仏の鋳造を指揮した陳和卿に面会を求めたが、和卿は頼朝は多くの人々を殺傷しているとして面会を拒絶している。
その陳和卿が自ら実朝には面会を求めて来たのである。
この事から実朝が将軍として名声を高めていたことがうかがえる。
それはともかく和卿は実朝を一目見るなり次のような話をしたという。
「あなた(実朝)は前世で中国の宋にある医王山の長老でした。」
「そして私(陳和卿)は同じく前世であなたの弟子でした」と涙ながらに語った。
これに対して実朝は「私も五年前に同じ内容の夢を見たことがある」と語ったという。
そして実朝は直ちに陳和卿に渡宋のための船の建造を命じたという。
この実朝の渡宋計画の目的については以前から主に次の二つの説が唱えられてきた。
まず一つ目は、この渡宋計画は実朝が義時に殺害されるのを恐れ日本を脱出するためだとするものでこの説が主流である。
また二つ目には、実朝が陳和卿の言葉を信じて医王山を実際に訪れるために計画したという説も多くの人に唱えられてきた。
しかし「新古今和歌集」に多くの歌を残している英明な実朝が考えたというには、どちらの説もあまりに稚拙のように思われる。
源頼朝は平清盛が朝廷に接近し過ぎたという失敗に学んで幕府を鎌倉に開いた。
では実朝は平清盛から一体何を学んだのだろうか。
清盛は中国との貿易で巨万の富を築いて平家政権の礎を築いた。
教養のある実朝は平清盛が行った日宋貿易を鎌倉幕府も行うべきだと以前から考えていたのではないだろうか。
そしてそんな時に建築と造船技術に優れた陳和卿が目の前に現れたのである。
実朝は和卿に中国と貿易をするための船を造らせるために、思わず話の辻褄を合わせたのではないだろうか。
北条義時は将軍実朝が側にいるからこそ執権として権力をふるえることを和田合戦で骨身にしみて学んだ。
義時が実朝を抹殺しても何のメリットもないため、実朝が義時に殺害されるの恐れたために渡宋を計画したとする説は説得力に欠ける。
また当時としては最上級の文化人で教養溢れる実朝が夢や占いをそのまま信じるとは思えない。
むしろ実朝は陳和卿の話を義時や政子を説得するために利用したのではないだろうか。
日本最大の武力を持つ鎌倉幕府が、日宋貿易によって経済的にも潤えば鬼に金棒である。
1217年建保5年4月17日、陳和卿が指揮して建造した巨大な船は由比ヶ浜で見事に完成する。
しかし由比ヶ浜が遠浅であったために、あるいは和卿の計算ミスで船は出港出来なかったという。
またあるいは、この頃から東日本で頻発していた地震によって海底の地形が変化したためかも知れない。
もしも実朝の渡宋計画が軌道に乗り、鎌倉幕府が直接に中国と順調に交易を行っていれば、日本の歴史も、そして実朝自身の運命も大きく変わっていたに違いない。
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