源実朝が暗殺されて源氏将軍は断絶するのだが、実は実朝自身がそれを望んでいたという説が存在する。詳しく見て行こう。


北条時政は牧氏事件で牧の方と孫の実朝を暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとした。


時政と牧の方は実朝を入浴させて実朝の兄・頼家と同じく浴室で殺害しようとする。


北条政子から緊急の連絡を受けた義時が入浴直前の実朝を救いだして暗殺計画は未遂に終わった。


時政と牧の方を鎌倉から追放した義時は、時政に代わって執権となると直ちに京都の平賀朝雅を誅殺させている。


北条義時が執権に就任してから鎌倉では、一見平穏な日々が続いた。


しかしまだ若い将軍実朝には次から次へと試練や難問が襲いかかるのである。


将軍の後継ぎ問題、頼家の遺児・公暁を猶子にする問題、実朝自身が天然痘で危篤となり、そして和田合戦で父のように慕っていた和田義盛を失うなど次々と災いが起こった。


まず将軍の後継ぎ問題では、実朝は後鳥羽上皇の従妹・坊門信子を妃に迎えたが、二人には結婚から十年以上経っても子供が生まれなかった。


一般には実朝は信子を愛していたために側室を置かなかったので世継ぎが出来なかったと言われている。


しかし本当は実朝が子供をつくることを拒絶したためだという説も根強く存在している。


実朝は兄の頼家をはじめ父の異母兄弟の義経や範頼、阿野全成、そして頼家の子・一幡など源氏の嫡流が次々に抹殺されるのを幼い頃から見聞きしてきた。


そのため実朝は自分はもとより自分の子供も男の子ならばきっと殺されるに違いないという思いに至った。


英明で心やさしい実朝は子供を慈しむあまりに信子との子作りを拒絶したというのである。


そして実朝は側近の大江広元に「源氏将軍は私で断絶するだろう。」と語っている。


母の北条政子は実朝のそんな様子を心配して、辻殿との間に生まれた頼家の遺児・善哉(のちの公暁)を実朝の猶子にしている。


この政子が京都で出家していた公暁を鎌倉に呼び戻したことが後に実朝暗殺という災いへと繋がって行くのである。


実朝は1208年承元2年、当時国内で大流行していた天然痘に罹患して九死に一生を得ている。


命はとりとめたが顔に「アバタ」が残ったことで、内向的な実朝がさらに消極的になり、将軍の役目である鶴岡八幡宮の催事にも三年余りも出席しなかったという。


また、父親の頼朝を幼くして亡くした実朝は、父と同年代の幕府の長老である和田義盛をことのほか慕った。


長老で豪快な義盛に父頼朝の昔話を聞くことが、さみしい実朝の数少ない楽しみだったようである。


ところがこの義盛が母親の政子や叔父の義時と権力争いで対立していく。


そしてついに和田合戦が勃発すると義盛と義時が将軍実朝の争奪戦を展開した末、和田一族は滅亡する。


争い事に疲れ、母親や親族にも不信感を抱いた実朝の唯一心の拠り所となるのが和歌であった。


後鳥羽上皇が編纂した「新古今和歌集」に父頼朝の歌二首が掲載されたことに刺激を受けた実朝は和歌つくりに没頭する。


後鳥羽上皇の計らいで藤原定家にも和歌の教えを受けた実朝は、自分の歌ばかり700首あまりを集めた「金塊和歌集」を編集している。


実朝はさらに中国の僧侶の影響を受けて由比ヶ浜で巨大な貿易船の建造にも着手している。


平清盛が日宋貿易で巨万の富を築いた先例に習い中国と貿易を始めようと考えたのである。


しかし由比ヶ浜が遠浅だったために船を浮かべることも出来ずに失敗に終わっている。


そんな実朝を手なずけようと後鳥羽上皇は毎年のように官位を与えた。


鎌倉の御家人たちは朝廷に媚びへつらい、突飛な行動を繰り返す実朝を無能な将軍と見ていたのかも知れない。


結局実朝は将軍の後継ぎとして上皇の皇子を迎える話を取り付けたが、次期将軍の座を狙っていた公暁に暗殺されるのである。


英明で知識の豊富な実朝であったが、なぜか彼の構想がことごとく挫折したり、裏目裏目に出て失敗した原因は一体どこにあるのだろうか。


実朝が暗殺されてまもなく承久の乱が起こるが、御家人たちの行動を見ればその原因がはっきりと見えてくる。


御家人たちは後鳥羽上皇が下した義時追討の院宣には従わず、領地を本当に安堵してくれる義時に味方したのである。


さらに言えば御家人たちは権威者ではなく権力者に付き従ったほうが幸せになれることをすでに源頼朝と朝廷の関係から学んでいたのである。


源頼朝は朝廷の権威が届かない鎌倉にあえて幕府を開いたのである。


そして京都の長所も短所も知り抜いている大江広元や三善康信に朝廷から鎌倉を守る政策を作らせたのである。


その根本が守護・地頭の設置であった。


御家人たちは守護・地頭の地位を与え守ってくれる北条氏を天皇よりも敬った。


朝廷は官位という権威を与えたが、幕府は守護・地頭という権力を与えたのである。


以後日本は幕末維新までおよそ700年近くが幕府が権力、朝廷が権威を持つという武家社会となる。


そして北条義時は朝廷を恐れず権威と権力を日本ではじめて引き離したはじめての人であったといえるのかもしれない。


残念ながら源実朝は自分が時代の分岐点立っていることを認識出来なかったために悲惨な結末を迎えることになったのである。


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