従来から畠山重忠親子は牧の方が北条時政に讒言したことによって誅殺されたというのが一般的であった。


ところが実は北条義時が時政を追放して、さらに武蔵国の権限を独占するために行った綿密な計画である可能性が非常に高いのである。


畠山重忠の乱が起こった経緯を詳しく見て行こう。


畠山重忠は武蔵国秩父一族の家に生まれ、平家追討の戦いでも武功をあげ、「鎌倉武士の鑑」だと称えられた人物である。


畠山重忠は武蔵国を統括する留守所惣検校職に任命されていたため、地域で多大な影響力を有していた。


一方の北条時政は牧の方との間に生まれた娘を源氏の名門出身の平賀朝雅に嫁がせたが、平賀氏は代々武蔵守を継ぐ家柄であった。


時政は幼い実朝を将軍に据えて幕府の実権を握ると朝雅を京都守護に任じて朝廷との関係を深めようと画策する。


1203年建仁3年に京都警護のために上洛した朝雅に代わり武蔵国を管理しようとした時政だが、畠山重忠の権限が強く様々な場面で手を焼いたようである。


時政は武蔵国の御家人たちに同年10月に「遠州(時政)に二心を抱かぬように」との通知をわざわざ下している。


年を越えて1204年建仁4年3月には実朝が右近衛少将に補任された。


ところが7月になると謀反を計画したという疑いで伊豆の修善寺に幽閉されていた頼家が謀殺されている。

鎌倉の暗いムードを一掃しようと実朝と公家・坊門信子の婚儀が発表され、時政と牧の方の嫡男・北条政範や畠山重忠の嫡男・重保が使者として上洛する。


しかし京都で病を発症した政範は11月にあっけなく16歳で急逝するのである。


政範の義兄で京都守護の平賀朝雅は同行していた畠山重保の怠慢を呵責して口論となっている。


政範逝去の報告を受けた時政と牧の方は悲しんだ。特に牧の方の悲しみ方は尋常ではなかったようである。


そのため畠山重保を逆恨みした牧の方が時政に讒訴して畠山重忠親子の討伐が行われたというのが定説となっている。


しかし武蔵国の経営をめぐって畠山重忠と対立していた北条氏は、畠山氏討伐を以前から計画していたものと考えられる。


梶原景時や比企能員に続いて武蔵国で多大な影響力を持つ畠山重忠は次に始末すべき標的だったのである。


「吾妻鏡」には畠山重忠親子の追討には北条義時と時房の兄弟が頑強に反対したことが強調されている。


しかし畠山重忠の乱の後、北条時政と牧の方がこの乱の責任を取って鎌倉から追放される経緯を見ていると、むしろ義時と時房が畠山重忠の乱の首謀者のように思えるのである。


「吾妻鏡」は鎌倉時代の後半に北条氏によって編纂された歴史書である。


そのため北条氏に有利なように記述されている部分が多いが、特に北条氏の得宗家についてはことさら都合よく書かれている。


義時、そしてその後を継いだ泰時の子孫が北条宗家の得宗家として執権以上に権力を握っていくのである。


結局畠山重忠と重保親子はほとんど抵抗することなく北条義時と三浦義村らに誅殺されている。


そして畠山重忠の乱によって御家人たちの信頼を失った北条時政は牧の方とともに伊豆へ追放される。


時政に代わって執権となった義時はすぐさま京都に兵士を送って平賀朝雅を誅殺している。


続いて侍所別当の和田義盛を挑発して和田合戦で滅ぼした北条義時は政所と侍所の別当を兼務して名実ともに幕府の最高権力者になっている。


畠山重忠のような抵抗勢力が消えた武蔵国で、謀殺された平賀朝雅に変わって武蔵守に就任したのが義時の弟・北条時房だったのである。


畠山重忠の乱によって一番漁夫の利を得たのが義時であり時房であり、そして尼将軍となって活躍する北条政子なのである。


畠山重忠の乱はいわば北条家の先妻の子供たちと、時政と後妻・牧の方とその子供たちの戦いであったと言えなくもない。


畠山重忠親子を無実の罪で謀殺すれば鎌倉の御家人たちの反感を時政が買うことを義時は十分に予想していたはずである。


だとすれば北条義時が畠山氏討伐を反対したのは時政を首謀者に仕立てあげるためのポーズだったのかも知れない。


権謀術数には優れた時政であったが、自分を越えた我が子・義時を目の当たりにして、抵抗することをあきらめたようにも思える。


この説が正しければ、義時たちは畠山重忠親子を利用して、時政と牧の方、そして平賀朝雅を排除し、同時に武蔵国という重要な地域を北条氏のものとすることに成功したのである。


義時が政子と協力して史上初めて武士が承久の乱で朝廷軍をも打ち破ることを考えれば、すべての糸は義時が操っていたと考えるのも、あながち間違いとは思えないのだが・・


【畠山重忠の乱】ユーチューブ動画