北条政範は北条時政と牧の方の間に生まれた唯一の男の子で、過大な期待がかけられたが、わずか16歳であっけなく逝去した。


北条政範とその後を詳しく見て行こう。


北条時政と牧の方の間には一男七女が生まれたが、政範は1189年文治5年、源義経が平泉で討たれた年に生まれている。


牧の方は政範に北条氏の家督を継がせたいと強く迫ったようで、時政は本来の嫡子である義時には江間氏を名乗らせている。


このような軋轢が時政と義時の対立を深めていく。


時政は20歳近く年下でしかも下級とはいえ公家出身の後妻・牧の方には全く頭が上がらず言いなり状態のようであった。


牧の方は源氏の名門で京都守護の平賀朝雅に娘を嫁がせ、朝廷に接近しようと企んだ。


そのため先妻の子供たちである北条政子や義時たちが、鎌倉武士は朝廷から独立して距離を置くべきと考えるのとは対照的でさらに両者の対立は深まっていく。


比企能員を罠にはめて暗殺した時政は、頼家を廃してまだ12歳の実朝を第三代将軍に据える。


さらに時政と牧の方は後鳥羽上皇の妃の妹である坊門信子を実朝の妃に迎えようと画策する。


牧の方はまだ16歳あまりの政範に従五位下の官位を受けさせることに成功すると、政範を実朝婚姻の使者として都に派遣する。


ところが政範は京都へ到着するや否や発病して床に伏せた。さらに治療のかいもなく政範はあっけなく1204年元久元年11月、16歳の若さで他界する。


京都守護で政範の義兄でもあった平賀朝雅は処置に困惑して政範に随行してきた何の咎もない畠山重忠の嫡男・重保を責めるとともに牧の方にも報告する。


牧の方の悲しみ方は尋常ではなく、泣き叫ぶとともに政範が死んだのは畠山重保のせいだととんだ逆恨みをする。


牧の方はいまや鎌倉幕府の最高権力者となった夫・北条時政に訴えて無実の、畠山重忠・重保親子に謀反の罪を着せて誅殺するのである。


この事件をきっかけに北条政子や義時をはじめ鎌倉のほとんどの御家人たちの心は北条時政から離れていくのである。

どうも朝廷に長く強いたげられてきた関東の武士たちには、朝廷に近付こうとする幕府の中心者は排除しようとすると心理が自然と働くようである。


この後政範を亡くして常軌を逸した牧の方は時政と、実朝を廃して平賀朝雅を将軍に据えようとしたとして義時と政子に鎌倉を追放される。


実際に時政と牧の方が実朝廃位を企んだのかどうかは不明だが、北条義時と政子が幕府の実権を握り、京都へ平賀朝雅追討の兵を送った事だけは確かである。


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