鎌倉幕府の礎を築いた北条義時は政子に先立って逝去するが、義時の子どもたちはその後どのような運命を辿ったのかを詳しく見て行こう。


北条義時は8男5女を最初の妻・阿波局、続いて姫の前、そして伊賀の方などとの間にもうけている。


最初の妻・阿波局との間には長男・泰時が生まれているが、阿波局は若くして亡くなったようである。


政子の妹で阿野全成と結婚した女性も阿波局という名前だが、全くの別人である。


泰時は義時の後を継いで第三代執権に就任、鎌倉幕府を磐石にした。


さらに泰時の家系がその後の北条氏の本家・得宗家として代々権力を握っていくのである。


続いて比企朝宗の娘・姫の前との間に次男朝時が生まれている。


朝時は将軍・実朝の女官に手をだして、一時は勘当されたがのちに復帰した。


朝時は北条時政の名越にあった屋敷を継承したため名越氏と呼ばれた。


名越氏の家格や勢力は得宗家に次ぐものであった。


だがかえって得宗家からその実力を警戒されて名越流からは執権や連署、六波羅探題は一人も出ていない。


同じく姫の前を母として生まれた3男・重時は、三代・泰時と五代時頼を補佐している。


政村は1205年に正室・伊賀の方を母として義時の4男として生まれた。


続いて同じ伊賀の方を母として5男・実泰が生まれている。


1200年正治2年に側室・伊佐朝政の娘を母として有時が生まれていた。


ところが当時は正室の子供が上位となったために有時は6男と記録されている。


伊賀の方の子・実泰は英明で執権・泰時に重用された。


しかし1224年元仁元年、義時が亡くなると謀反の疑いで伊賀の方が追放されるという「伊賀氏の変」が勃発する。


以後実泰は精神的に異常をきたして狂言自殺などを行い、家督を11歳の嫡男・実時に譲ると出家している。


「伊賀氏の変」は義時の死後に伊賀氏の勃興を恐れた政子のでっち上げだという説が有力のようである。


あと義時の男子には時経と時尚という生まれた年も母親も不詳の二人がいた。


また五人の女子についても生没年や名前は不詳だが、それぞれの嫁ぎ先は記録に残されている。


順に嫁ぎ先を順不同で列挙すると、中原親能の子・駿河守季時、公卿の一条実雅、右大将真有。


さらに大江広元の長男・大江親広、足利宗家7代目当主の足利貞氏、以上となっている。


いずれも有力御家人や公家の元に時政と同じく娘たちを嫁がせている。


協力するものとは姻戚関係となって絆を深め、反対に歯向かう者は容赦せずに徹底して滅ぼすというのが北条氏の手法だったのである。


【北条義時の子供たち】ユーチューブ動画