源頼家は将軍の座を北条時政に追われ、幽閉された後に暗殺されている。


だが頼家の子どもたちも父親に負けず劣らず悲惨な最期を遂げている。源頼家の子どもたちのその後を詳しく見て行こう。


頼家には若狭局と辻殿、そして一品坊昌寛の娘との間に男の子4人と女の子1人の合計五人の子どもがいたことが確認されている。


その内訳は、長男の一幡、次男の公暁、三男の栄実、四男の禅暁、そして長女の竹御所である。順にその生涯を見ていきたい。


まず長男の一幡は頼家と比企能員の娘・若狭局との間に1198年建久9年に生まれている。


ちょうど源頼朝が逝去する前年であったが、若狭局は正室ではなかったようだが、比企一族が後ろ楯となっていたために一幡が嫡子になる公算が大きかった。


そのため一幡の成長が北条時政を焦らせ凶行に走らせて、比企一族を滅亡させることになる。


さらに北条氏が頼家を廃して実朝を将軍に据えるきっかけとなったのである。


比企の乱で母・若狭局を失った6歳の一幡は女官に連れられて一時は逃れたが、北条氏によって見つけ出されて殺されている。


次男の公暁は1200年正治2年に辻殿を母として生まれ、乳母夫には三浦義村が選ばれている。


1204年元久元年、頼家が北条時政に幽閉先の伊豆の修善寺で暗殺されると、北条政子は公暁を引き取って養育している。


さらに政子は北条家の内紛を避けるために公暁を出家させて鶴岡八幡宮の別当に就任させると共に、公暁を将軍実朝の猶子にしている。


しかし実朝を親の仇だと信じた公暁は、1219年建保7年に実朝を鶴岡八幡宮で暗殺、自分も三浦義村の手勢に誅殺されている。


三男の栄実は1201年建仁元年に頼家と一品坊昌寛の娘との間に生まれたが、頼家が亡くなると尾張中務丞に養育されている。


だが御家人・泉親衛が謀反を起こすために栄実を担ついだため政子に出家させられたが、栄実は出家した時の名前である。


ところが和田合戦に破れた残党に再び担がれた栄実は北条氏に破れてわずか14歳で自害している。


四男の禅暁も一品坊昌寛の娘を母として生まれたが、頼家の死とともに仁和寺へ出家させられている。


しかし後鳥羽上皇との仲が険悪となった北条義時は二階堂行政の子息・行光に命じて京都から禅暁を鎌倉へ引き戻そうとしている。


そして将軍に担がれる危険性のある禅暁は北条氏によって1220年承久2年に京都の東山あたりで暗殺されたと言われている。


禅暁の母は頼家亡きあと再婚して三浦義村の末弟・義胤に嫁いだ。

義胤は夫の頼家や我が子・栄実と禅暁を無惨にも北条氏に殺された妻を哀れんだ。


そして承久の乱では兄の三浦義村とは袂を分かち、妻のために朝廷側の将軍として北条氏と戦って華々しく散ったという。


唯一の娘である竹御所は1202年建仁2年に若狭局を母として生まれた。


しかし生まれてすぐに母を失い、父・頼家も二年後には亡くなっている。


竹御所は北条政子に引き取られ養育されている。


1204元久元年、将軍実朝は後鳥羽上皇の妃の妹・坊門信子と結婚、実朝は上皇と義兄弟となった。


しかし年を重ねても実朝と信子の間に子供は出来なかった。


政子は竹御所を信子の猶子にして、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えて結婚させようと考え、上皇の承諾も得ている。


ところが1219年承久元年に公暁が実朝を暗殺したため、政子の計画は水泡にきした。


結局鎌倉幕府はまだ二歳の三虎(のちの九条頼経)を将軍に迎えることになった。


1221年に承久の乱が勃発、北条義時追討の院宣を下した後鳥羽上皇だが、関東の武士たちは再び朝廷の奴隷に戻ることは拒否して幕府軍として戦い勝利する。


承久の乱の後、29歳となった竹御所は13歳の将軍・九条頼経と結婚する。


やがて竹御所は頼経の子供を1234年天福2年に出産するが母子ともに死去した。


竹御所の逝去で源頼朝と北条政子の子孫はすべて断絶する。


不幸な星の元に生まれた源頼家だが、子供たちもほぼすべてが同じように将軍家の血筋を引くと言うだけで不幸な人生を歩んだのである。


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