北条政子は源頼朝の亡きあとは尼将軍と呼ばれたが、夫をはじめ我が子四人や孫たちにも先立たれている。


その度に流した涙は数えきれず、深い悲しみを味わったが、なぜ北条政子が苦難の生涯を歩んだのかを詳しく見て行こう。


北条政子は伊豆の豪族・北条時政の長女として生まれ、流人の源頼朝と結ばれた。


頼朝は艱難辛苦を乗り越えて鎌倉殿に就任する。政子は頼朝との間に二男二女をもうけ政子たちは正に人生の絶頂期を迎えている。


ところが長女の大姫が後鳥羽上皇への入内を目前に二十歳足らずで病死する。


さらに1199年建久10年、頼朝が落馬が原因と言われるが急死するのである。


出家した政子は嫡男の頼家を後継にして、父の時政、弟の義時と鎌倉幕府を支えていく決意をする。


しかし頼朝が死んだ半年後に次女の三幡(乙姫)もわずか14歳で病死する。


大姫亡き後、しっかり者の乙姫を政子は頼りにしていたが、夫と二人の女の子を続けて亡くした政子のショックは大きかったにちがいない。


二代将軍に就任した源頼家だが、乳母夫・比企能員の娘である若狭局を寵愛して、徐々に政子の手から離れて北条家には寄り付かなくなっていく。


北条家の将来に危機感を募らせた時政は頼家の弟・源実朝を擁立して頼家を支持する比企能員や梶原景時と対立する。


まず景時を追放して梶原一族を滅亡させた時政は、続いて能員を暗殺して比企一族を滅ぼすと、頼家と若狭局の間に生まれた一幡を殺害している。


政子はこの時も孫である一幡を失い悲しみを味わったと思われる。


時政は頼家を廃してまだ幼い実朝を鎌倉殿に据えると、頼家を伊豆の修善寺に幽閉して翌年には暗殺している。


幽閉された頼家は生前、政子に手紙を送ってさみしさとその悲しみを伝えたが、政子は息子の手紙に涙したにちがいない。


政子は嫡男の頼家を父親の時政に殺されるという、おぞましい仕打ちを受けたが、北条家のために耐え抜いたのであろう。


政子は頼家が正室・辻殿との間に残した遺児・公暁を引き取って大事に育てている。


さらに政子は、頼家の菩提を弔わせるため公暁を出家させ、長じると鶴岡八幡宮の別当に任じている。


実朝の後見人となった時政だが、実朝は時政と牧の方にはなつかず政子と義時を頼りにした。


そのため時政と牧の方は、実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍に就任させようと暗躍する。


当時の将軍は後見人宅に居を構えていたが、時政邸から実朝を救いだした政子と義時は父・時政を見限って追放する事を決断した。


出家した時政と牧の方が伊豆へ追放されると義時が執権に就任するとともに実朝の後見人となった政子は「尼将軍」と呼ばれた。


1200年、実朝が鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式で公暁に暗殺されるが、公暁もすぐに誅殺されている。


この事件は謎が多いが、黒幕は公暁の乳母夫・三浦義村ではないかと言われている。


それはともかく政子は手塩にかけ育てた実朝と公暁を同時に失うのである。


政子の悲哀と傷心は想像を絶するものがあるが、気丈に振る舞ったその心の支えとなったものは一体何だったのだろうか。


あくまでも想像であるが、亡き夫・頼朝が残した「東日本の武士たちを朝廷から独立させたい」という強烈な意志を政子は引き継いだのではないだろうか。


そしてその頼朝の意志を実現するために女性としてのあらゆる感情を圧し殺して「尼将軍」を演じたと思えてならない。


実朝の死によって源氏将軍が三代で絶え、後鳥羽上皇と幕府の間に承久の乱が勃発する。


政子はこの時も鎌倉に集った御家人たちを奮い立たせる言葉を送って、幕府軍を勝利に導いている。


さらに義時が亡くなった時にも政子はざわめく幕府内を鎮め、三浦義村の謀反を深夜にも関わらず駆けつけて説得して未遂に終わらせたと言われている。


晩年に政子は、過去には悲しみに涙して、辛くて何度も死のうと考えたが周囲に止められたと語っている。

苦しみを覚悟して理想を実現する道を選んだ北条政子は、孫の北条泰時に後を託して1225年嘉禄元年、69歳で逝去した。


女性としての政子は不幸だったかも知れないが、政治家としての政子は立派に自らの目的を達成したのである。