鎌倉幕府第三代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式の途中に公暁に暗殺された。この事件は公暁が単独犯ではなく現在まで多くの黒幕存在説が唱えられて来たが、残された資料から黒幕は誰かを考察してみたい。


1219年承久元年正月27日、第三代将軍・実朝が1鶴岡八幡宮別当で19歳の公暁に暗殺された。


公暁は第二代将軍・頼家の遺児であるが、実朝を討ち取ると鎌倉幕府の公式歴史書といわれる「吾妻鏡」には「父の仇を討ち取った」と叫んだと書かれている。


また慈円の「愚管抄」には討ち取る直前に「親の敵はかく討つぞ」と名乗ったと記述されている。


ところが頼家が殺された時に弟の実朝はまだ12歳の少年であった。


頼家は幽閉先の修善寺で殺戮されているが、実朝が暗殺命令を出すにはあまりに幼すぎる年齢なのである。


さらに公暁は犯行直後に乳母夫の三浦義村に「我こそは現将軍を討ち倒した次期将軍であり、早々に就任の用意をせよ」と使者を送っている。


このことから計画通りに実朝暗殺が成功すれば、黒幕との間に、早々に公暁が第四代将軍に就任するという筋書きが出来ていたことになるのである。


この事件の黒幕はまだ19歳の公暁に親の敵が実朝であることを信じ込ませ、暗殺が成功した後には将軍に就任出来ると思い込ませることが出来た人間ということになる。


それが可能な人物と言えば、真っ先に公暁の乳母夫・三浦義村の名前が浮かび上がってくるのである。


頼家が修善寺で殺戮されると北条政子は頼家と賀茂重長の娘の間に生まれたまだ4歳の公暁を僧籍に入れて鎌倉に置き、一族の鎮魂に当たらせようとした。


1205年元久2年に公暁を鶴岡社務の尊暁の元に入門させ園城寺で修行させるとともに実朝の猶子にまでしている。


ところが鎌倉に戻った公暁はやがて髪を伸ばしはじめて還俗しようとする。


政子は頼家の殺害には直接関係したという資料は見当たらないが、かといって積極的に反対した形跡も見当たらない。


そのためか頼家の遺児・公暁には7歳の袴着の儀式を盛大に行うなど何かと気を使ったようである。


そして1217年建保5年、公暁が18歳になると政子は鶴岡八幡宮の別当に就任させている。


当時北条義時は和田合戦によって侍所別当の和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の別当を兼務して最高権力者の座を手に入れていた。


このため北条氏の最大のライバルであった大きく水をあけられたことに三浦義村は焦りを感じ対策に頭を悩ませていたことは確かである。


実朝には後継者がいなかったが、義時や政子は後鳥羽天皇と内密に連絡を取り、後鳥羽天皇の皇子を次期将軍に迎える約束を交わしていたと言われている。


この事実を知った義村は公暁に「親の仇は実朝であり、朝廷から皇子の将軍を迎えればあなたの出番は永遠に訪れはしない」と訴えた。


乳母夫の義村にとって公暁は最後の切り札であり、北条氏を追い抜くための一発逆転のチャンスは実朝を倒して公暁を将軍に据える道しか残されていなかったのである。


義村は鶴岡八幡宮の別当である公暁と、実朝の右大臣拝賀の儀式で北条義時と実朝を同時に暗殺することを計画する。


当日は実朝の御剣役として義時が付き従うことになっていたため、公暁は助っ人の僧侶たちと実朝と義時を同時に襲撃して暗殺する手筈を調えた。


拝賀の儀式当日、夕方に鶴岡八幡宮に実朝が到着する。ところが北条義時は異変を事前に察知して御剣役を体調不良を理由に源仲章に交代している。


実朝が儀式を終えて上宮から降りる石段で、公暁と郎党たちに襲撃される。


公暁たちは実朝と義時と交代した源仲章を義時だと思って討ち取っている。


ところが義時が途中で自邸に引き上げたために計画が失敗したことを知った義村は、クーデターを諦め突然に中止する。


義村は迎えの代わりに刺客を送って口封じのために公暁を殺害するとともに、証拠隠滅を図って公暁を単独犯に祭り上げたと考えられる。


義村は義時とは従兄弟同士で幼馴染みである。お互いに手の内を知り尽くした関係である。


実朝暗殺への義村の関与を疑いながらもさすがに義時は権謀術数では数段勝る義村を処罰することをためらったようである。


三浦義村は北条義時の逝去後、義時の後家・伊賀の局と図って再びクーデターを計画しているが、北条政子に説得されて思い止まっている。


鎌倉幕府の権力者にのしあがるために協力しあった義時と義村だが、陰で二人は互いに壮絶な駆け引きを繰り返していたのである。


結局二人の頭脳戦は勝負がつかず、義村の子・泰村が北条氏に滅ぼされるという結末を迎えている。


鎌倉の執権政治は、北条義時と三浦義村という稀代の策謀家が最大の協力者でライバルという不思議な関係の上に築いた日本初の武家社会であったのである。