平氏の総帥・平宗盛は檀ノ浦で嫡男の清宗とともに捕縛されると源義経に斬首された。平宗盛の生涯を詳しく見て行こう。


平宗盛は1147年久安3年、平清盛の三男として産まれた。母は清盛の正妻・時子で、異母兄に重盛・基盛がいた。当時は正妻の長男が後を継ぐことが常識のため、宗盛は幼少から嫡男として育てられたようである。


その証拠に宗盛は1157年保元2年には11歳で従五位下に昇進、21歳には早くも右近衛中将から参議となり、公卿に列している。


さらに同母弟の知盛も兄の宗盛と同様に昇進を重ね、左近衛中将となって平氏の軍事を担当して兄弟で平氏を支えた。


1177年に鹿ヶ谷の陰謀に義兄が関与したため兄の重盛が失脚、清盛は宗盛を平家の総帥にしている。


後に鎌倉幕府によって書かれた「吾妻鏡」では多くの箇所に宗盛が勇気のない愚将だと記述されている。しかし1180年清盛が福原に遷都すると宗盛は清盛を説得して都を京都へ戻している。


平家の総帥として宗盛は唯一清盛と口論出来る武将として清盛も一目置く後継者であり、決して愚将などではなかったと思われる。


以仁王が挙兵した翌1181年に清盛が逝去、源頼朝の首を墓前に添えよと遺言する。35歳の宗盛は30歳の弟・知盛と平家の権威回復のために各地に転戦して源氏を打ち破っている。


しかし1183年、源義仲が京都に迫ると、一旦は勢多に出向いて義仲と対峙するが、都を包囲する大軍を目にしてついに都落ちを決意、一門をまとめて都を放棄している。


宗盛は当初九州に向かい大宰府に本拠地を築こうとしたが、予想以上に反平氏の勢力が多かったため、再び瀬戸内海に戻り讃岐の屋島を本拠とし、福原にも帰還を果たしている。


宗盛と知盛は源義仲が派遣した足利義清を水島で打ち破り、源行家を播磨の室山で撃破するなど再び勢力を盛り返し1183年の年末には再び瀬戸内海の制海権を掌握した。


だが源義経は一の谷の戦いで平家を急襲、平家は一門の半数を失い、かろうじて屋島や長門の彦島に逃れた。


後白河法皇は捕虜となった平重衡を通じて安徳天皇の帰還と三種の神器の返還を条件に和平案を提案する。


しかし宗盛は清盛の「頼朝の首を墓前に添えよ」との遺言を頑なに守ろうとしたため、和平案はまとまらなかった。


屋島でも義経の急襲で惨敗した平氏は長門の彦島へ集結して最後の一戦に備えたが、多くの水軍を擁する平氏は断然有利のはずであった。


ところが義経は熊野水軍をはじめ讃岐や伊予の水軍を味方につけて檀ノ浦の戦いに臨んだのである。


1185年4月25日、朝から海流に乗った宗盛ら平氏の船団は優位に戦いを進めるが、午後から海流の変化で源氏軍が反転攻勢に出る。


宗盛と知盛はついに敗戦を認め、母の平時子や妹の建礼門院徳子に海に身を投じよと告げ、知盛は鎧とともに入水した。安徳天皇を抱いた時子と徳子が三種の神器とともにそれに続いた。


最後に宗盛も子息清宗と入水するが折り悪く源氏方に捕縛される。平宗盛は清宗義経に鎌倉へ連行され、京都へ連れ戻される途中、近江で義経に斬首された。享年38であった。


こうして栄華を極めた平家一門はそのほとんだが、消え去った。


古来より歴史は勝者によってつくられる といわれるが、宗盛や知盛の評価はまさにその好例と言えるのかも知れない。