源頼政は以仁王が挙兵すると呼応して平清盛と戦い、平家滅亡への端緒を開いた。源頼政とその後を詳しく見て行こう。


源頼政は1104年長治元年、摂津源氏の流れをくむ源仲正の嫡男として生まれた。父は兵庫頭で朝廷の兵器を管理する長官であった。


鳥羽院の后・美福門院に見いだされた頼政は、武家歌人として貴族とも交流する文武両道の文化人であった。


鳥羽院には待賢門院と美福門院という二人の后がいたが、待賢門院は鳥羽院の祖父・白河法皇と不倫関係にあった。


そのため待賢門院が産んだ第一皇子の崇徳天皇を、鳥羽院は叔父子と言って忌み嫌った。そして近衛を産んだ美福門院を母子共に寵愛する。


1141年永治元年、鳥羽院の意思によって、崇徳天皇から弟の近衛天皇へ譲位が行われる。鳥羽院は白河院や崇徳上皇に近い人々を遠ざけて院政を行った。


ところが1155年、近衛天皇が皇子を残さず17歳の若さで崩御したため、鳥羽院は後継選びに苦慮する。


鳥羽院は第四皇子であった後白河の后が二条を産んで直ぐに逝去するとその子を美福門院の養子にしていた。


崇徳上皇の皇子を絶対に即位させたくない鳥羽院は、後白河を一時的に天皇にして二条を後継にする道を選んだ。


もちろん頼政は鳥羽院を支持するが、朝廷内を鳥羽・後白河派と崇徳上皇派に分裂させて、かつてないほどの対立させる事態が到来する。


1156年保元元年7月、鳥羽院が崩御すると、朝廷内は後白河天皇派と崇徳上皇派に別れて争う保元の乱が勃発する。


後白河天皇は平清盛、源義朝、源頼政を味方につけて有利に戦いを展開した。崇徳上皇は円城寺の別院如意寺に逃れたが、謀反人として讃岐国に配流され、8年後の1164年に讃岐で悶死する。


わが子二条天皇に譲位した後白河院は、崇徳の葬儀を国葬とはせず、讃岐でひっそりと行わせている。そのため都では長く崇徳院怨霊伝説が語られることになった。


当時は怨霊の存在が広く信じられており、朝廷警備の任につき、文武両道に優れた頼政は怪物の鵺退治でも有名となっている。


後白河院が院政を開始すると二条天皇との権力争いが始まりやがて平治の乱へと発展していく。


1159年平治元年12月、平清盛が熊野詣でに旅立つと、藤原信頼がクーデターを決行、源義朝らが後白河院と二条天皇を拉致する。


旅先で事件を知った清盛は、紀伊国の豪族・湯浅氏の協力を得て都に戻る道中で軍勢を整えて六波羅に入った。


後白河院が仁和寺へ、二条天皇が六波羅へ脱出したため藤原信頼や源義朝らは御所に籠って戦ったが、頼政は義朝の長子・義平に攻撃されたため同じ源氏同士で戦っている。


まもなく藤原信頼は捕まって六条河原で斬首され、義朝は尾張へ逃げたが裏切りにあって絶命している。


義朝の子供たちも多くが戦死し、または処刑されたが、頼朝は清盛の義母・池禅尼の助命嘆願によって命を救われ伊豆流罪となった。


後白河側について同じ源氏と戦った頼政は清盛の信頼を得て、1171年には正四位下に、1178年には従三位に叙せられている。


平氏がどんどんと台頭して「平家にあらずんば人にあらず」と言われる中、唯一源氏として殿上人として朝廷に仕えた頼政だが、ある事件をきっかけに平家打倒の決意を固めていく。


頼政の嫡男・仲綱は天下無双の名馬の鹿毛を持っていたが、清盛の三男・宗盛が再三にわたって譲って欲しいといってきた。


しかし仲綱はこの馬だけは絶対に手放さないと突っぱねていた。すると父の頼政はそれほど人が欲しがるものを惜しむのはよくない、と説得する。


仲綱は父の説得に、仕方なく名馬を宗盛に譲ったが、宗盛は素直に歓ばず、長く讓らなかった腹いせに、馬を仲綱と名付け、馬の尻に仲綱と書いた烙印を押して鬱憤を晴らした。


さらに名馬を一目見たいという客があると、「仲綱めを引き出せ」と家来に命じ、仲綱と烙印を押した馬の尻を人々に見せつけたのである。


これを伝え聞いた頼政は激怒してあまりの屈辱に、ついに平氏を打倒する覚悟を決めたと言われている。


平家打倒を決意した頼政は、後白河院の第三皇子の以仁王と協議、参謀長となって計画を進めた。1180年治承4年、平家討伐の令旨が下される。


以仁王挙兵の報告を聞いた宗盛は福原の清盛に連絡、清盛は都に急遽駆けつけて以仁王の捕縛を命じた。


頼政は嫡男・仲綱、次男・兼綱を引き連れて約三百騎で以仁王を三井寺、そして奈良へと逃そうと付き従う。


以仁王が疲労困憊したため宇治の平等院で休息しているところに、六波羅から駆けつけた平知盛、重衡らに取り囲まれる。


頼政親子は奮戦するが、兼綱が討たれ、仲綱が自害する。頼政も膝を射られて重症をおった。


しかし頼政はわずか50騎で以仁王を奈良へ逃すために平家の大軍を押さえて戦った。


以仁王が無事奈良へ落ちのびたことを確かめた74歳の源頼政は、自害して果てた。


残念なことに以仁王は興福寺の僧兵が待ち構えるわずか手前で流れ矢に当たって逝去した。


以仁王の死は厳重に秘され、全国各地で源氏が蜂起、平氏は都落ちして滅亡へと追い込まれていくのである。


無念にも源氏の勝利を見ることなく没した源頼政一家だが、頼政らの奮戦が平家滅亡への大きな契機となったことだけは間違いない。


頼政は次の歌を残して逝去した。


埋れ木の  花咲く事も  無かりしに  身のなるはてぞ  悲しかりける


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