平民宰相と言われた原敬は、渋沢栄一と対談をした時、栄一から移民問題でこじれたアメリカとの関係修復を必ず実現するよう懇願された。原敬とその後を詳しく見て行こう。


原敬は1856年、盛岡藩家老の次男として生まれた。しかし戊辰戦争で新政府軍に敵対した盛岡藩は莫大な賠償金を背負い、原家も土地や家を売却して没落する。


明治維新直後に上京した敬は、無料のカトリック神学校へ入学、洗礼を受けて勉学に励んだ。


敬は司法省法学校に入学、成績は優秀であったが待遇の改善運動を起こしたことから退学処分となる。郵便報知新聞の記者となるとさらに移籍して大東日報の記者をしている時に井上馨と出会った。

井上の勧めで外務省に入省した敬は、そこで生涯の師となる陸奥宗光と出会った。敬は外務次官、朝鮮駐在公使として外務大臣の陸奥を支えたが、1897年明治30年、陸奥が肺結核のため53歳で死去すると官界を去っている。


大阪毎日新聞社長となった敬は、1900年明治33年、伊藤博文が立憲政友会を組織すると入党して幹事長に就任する。


逓信大臣の星亨が暗殺されると代わって初入閣を果たした敬は、西園寺内閣では内務大臣として活躍した。


大正政変の道義的責任を取って辞任した西園寺公望に代わって敬は立憲政友会総裁に就任した。

1918年大正7年に寺内正毅内閣が総辞職すると、敬は日本で最初の本格的政党内閣の原内閣を組閣する。当時はロシア革命の影響で日本では大正デモクラシーがもてはやされ政治にも大きな影響を与えていた。


国防、産業、交通、教育の四大政綱を掲げた敬はすべての官爵位を辞退した「平民宰相」として国民の人気は高かった。


1902年から1922年までは日英同盟が結ばれ、1902年から1932年の犬養首相暗殺までの30年間は比較的安定した古き良き日本の時代といえる。


まさに敬が首相に就任したのはこの古き良き時代がそろそろ終わりを告げ、新たな激動の時代へと移行していく時期であった。


首相に就任した63歳の敬が特に力を入れたのが1921年11月に開催されたワシントン会議であった。


軍縮および極東を議題として開催された会議だが、アメリカの働きかけによって日本と英国は両国とも不本意ながら日英同盟を破棄することになる。


極東進出を伺うアメリカでは日本人移民の排斥運動が激化、栄一は敬のいる首相官邸を訪れ、アメリカの日本人移民の保護と日米の関係修復を懇願している。


実業界に身をおく栄一にとってはアメリカと対立することがどれほど日本経済に損害をもたらすかを粘り強く訴えたのである。


国民の期待が大きかった原内閣だが、世界恐慌後の不況や立憲政友会内の疑獄事件が多発したため、人々は次第に不満を募らせていく。


敬は星亨の利益誘導型政治を引き継ぎ、工事業者などに仕事や利益を与える見返りに選挙で票を集める手法を用いた。


この敬が用いた日本型の利益誘導型政治は、現代に繋がる日本の政党政治の原型といえるものであった。


しかし利益供与には限界があるように、利益を享受できる有権者も数に限界がある。また政治家と業者が癒着しやがて腐敗してゆく。


利益を享受出来ない支援者は次第に不満を募らせていき、最後はテロという凶行に及ぶという日本型政治の歴史が繰り返されていくのである。


1921年大正10年11月4日、関西での政友会大会に出席するために東京駅の丸の内南口へ向かっていた原敬は、国鉄駅員で18歳の中岡艮一に短刀で胸を刺され、駅長室へ運ばれたがすでに絶命していた。


ある右翼の幹部は敬が刺殺される数日前に、敬が近日中に暗殺されるであろうと予告していたという。


その後何度も戦争反対を叫ぶ政治家のテロが繰り返され、1931年昭和6年には渋沢栄一が病死すると、やがて日本は雪崩をうつように泥沼の戦争へと突き進んで行くのである


現在の世界情勢と類似する点も多く、原敬や渋沢栄一が生きた時代から、我々が学べることは多いはずだ・・