浅野総一郎は水力発電所や鉄道の建設が急増するという渋沢栄一の助言を受け、官営深川セメントの払い下げに成功して浅野セメントを設立した。浅野総一郎とその後を詳しく見て行こう。


浅野総一郎は1848年、越中薮田村の医師・浅野泰順の長男として生まれた。しかし医者にはならず郷土の大商人・銭屋五兵衛に憧れ商人を目指した。


豪農の娘に婿入りすると、家族の反対を押しきり海産物の輸送・販売に手を出すが失敗、大きな損失を出したため離縁する。


1871年明治4年に23歳で上京した総一郎は、夏はお茶の水の冷水を売り、冬は赤門前でおでんを販売するなどして蓄財に努めた。


1872年明治年、向かいの貸し蒲団店でよく働く女中の佐久と結婚した総一郎は、夫婦で石炭の販売を手掛けるが、石炭からガスを製造するガス会社と繋がりが出来る。


石炭からガスを作る時に出る産業廃棄物のコークスやコールタールを安く仕入れて販売する事を思い付く。


コークスは官営の深川セメント工場でセメント製造の燃料として高く売れた。また数年後に国内でコレラが蔓延すると、消毒剤の原料としてコールタールが高値で売れて大儲けする。


王子抄紙(のちの王子製紙)で皆が「殿様」と呼んで尊敬していた渋沢栄一と出会うが、栄一は人夫と一緒に真っ黒になって働く総一郎に感心して声をかけて自宅に招いた。

栄一は今後、水力発電所や鉄道の建設が急増することに触れ、セメントの需要が益々増えると助言、栄一の後押しで総一郎は官営深川セメントの払い下げに成功してセメント会社を立ち上げた。


浅野セメントと名付けた合資会社は安田財閥の祖・安田善次郎らも支援、時代の波に乗り、日本セメント、そして現在の太平洋セメントへと成長、総一郎は「日本のセメント王」と呼ばれた。


三菱が海上輸送を独占していたためセメントなどの輸送費が高騰したため、総一郎は渋沢栄一や渋沢喜作、益田孝らと共同運輸を設立する。


三菱と果てしない船賃の値下げ競争を展開、三菱の創始者・岩崎弥太郎は病死するが、最終的には共同運輸は敗退している。


まだ納得のいかない総一郎は横浜から深川までコークスの運搬用に汽船を買い入れ、やがて汽船の数を増やして東洋汽船へと発展させている。


1896年明治29年にはイギリス、ドイツ、アメリカの港湾開発を視察、港と工場が一体化した港湾を日本にも作る必要性を痛感する。総一郎は鶴見・川崎一体を埋め立てて造船所などを建設した。


総一郎は安田善次郎の協力を得て東京から横浜にかけての東京湾に日本初の臨海工業地帯を建設。JR鶴見線には現在でも「浅野駅」と「安善駅」という二つの駅名が残っている。

総一郎は安田財閥の資金援助を受けて、鉱山、製鉄、電力、貿易など多角的に事業を展開、一代で浅野財閥を築いた。総一郎は晩年には教育にも関心を示し浅野学園を創設している。


浅野総一郎は1930年昭和5年、欧米視察に向かうがベルリンで発病、帰国して大磯町の別邸で療養していたが同年11月、食道癌と急性肺炎のため82歳で逝去した。


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