新政府軍が権田村へ迫ると、小栗忠順は妊娠7か月の妻・道子を会津若松へ落ち延びるように付き人と逃した。小栗道子とその後を詳しく見て行こう。


小栗道子は播州林田藩主・建部正醇の娘として生まれ、小栗忠順の正室に迎えられた。この写真は娘・国子で、道子は写真を残していないが「衣通姫」と言われる美しい姫であったという。


忠順と道子は仲睦まじい夫婦であったが長く子供には恵まれなかった。ところが結婚から18年目の1867年慶応3年に道子は数え30歳で懐妊する。


しかしこの年の10月、将軍・徳川慶喜は大政を奉還、翌年の正月には戊辰戦争が勃発した。


勘定奉行の忠順は鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸城に逃げ帰った慶喜に徹底抗戦を訴える。


忠順は箱根で新政府軍を迎え撃ち、榎本武揚率いる幕府海軍を駿河湾に集結して艦砲射撃を浴びせれば、官軍を壊滅させることが出来ると慶喜に力説する。


だが官軍への恭順を決意していた慶喜が立ち去ろうとすると、忠順は袴の裾を押さえつけ慶喜を引き止めたという。


この行為により忠順はすべての役職を解任され、領地の群馬郡権田村へ引き下がった。


やがて権田村にも新政府軍が迫ったため、懐妊中の道子に懇意の会津藩を頼って逃げ延びるように伝えるが、道子は忠順の元に留まると言って聞かない。

忠順は小栗家存続のため無理やり従者とともに道子を会津へと出立させた。


まもなく忠順は官軍に捕縛され、取り調べもなく翌日に河原で斬首された。享年42であった。忠順が何故斬首されたのかは、今も謎の部分が多い。


道子は逃亡中に官軍の吉井藩・捜索隊長に捕まるが、隊長は妊婦の道子を哀れんで、草篭に匿い安全なところまで運んだうえに逃してくれた。


苦難の末会津へにたどり着いた道子は野戦病院で娘・国子を出産している。


のちに江戸から名が変わった東京に戻った道子と国子は、忠順の中元であった三井の大番頭・三野村利左衛門に手厚く保護された。


利左衛門は忠順のお陰で三井家に破格の待遇で雇われた恩があった。そのため深川に立派な屋敷を用意して道子と国子の世話を死ぬまでして忠順の恩に報いている。


利左衛門は美しい道子に言い寄る新政府の役人などから守るのに苦労したとのちに述懐している。


1877年明治10年に利左衛門が病没すると、大隈重信の妻・綾子が道子と国子の面倒を見ている。綾子は旗本・三枝家の出身で忠順とは従兄妹同士であった。


小栗道子は1885年明治18年、48歳で逝去するが、国子は大隈夫妻に引き取られ、のちに婿を迎え小栗家の血統は奇跡的に繋がれた。


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