明治維新は男性ばかりではなく女性も芸者から閣僚の妻にといったジャパンドリームが数多く実現した。伊藤博文の妻・梅子もその一人だが、伊藤梅子とその後を詳しく見て行こう。


伊藤梅子は下関の花街に生きる女性であったが、 長州の尊攘志士・伊藤博文に出会うことによって大きく運命を変え、歴史にその名を刻んだ。


長州藩では木戸孝允とその妻・松子、もとは幾松と名乗った京都の芸妓が有名だが、博文の妻となった梅子もまた、下関の遊里にいた、いわゆる馬関芸者であった。


伊藤博文は1863年文久2年、井上馨らと英国に留学中だったが、長州藩と列国との衝突の報に接して急遽、翌年、帰国。英・米・仏・蘭四か国連合艦隊の下関砲撃事件では通訳として講和に尽力、藩内で頭角を現した。


その時馬関で芸者をしていた梅子と出会うが、梅子は稲荷町の「いろは」の養女で、その頃は小梅と名乗っていた。


梅子は長州で木田久兵衛の長女として生まれ、家庭の事情で花柳界に身を投じていたが、当時梅子は17歳、博文は24歳であった。


ともに要領がよくて才気煥発、似た者同士の二人は直ぐに意気投合、博文は入江九一の妹で先妻のすみ子と理由は不明だが別れて梅子と結婚している。


藩の実力者・木戸に従って武力討幕に邁進した博文は、次第にその才能を認められ井上馨とともに出世していく。 高杉晋作、久坂玄瑞ら指導者が次々と倒れたこともあり、長州出身の若きリーダーとなっていく。


伊藤が戊辰戦争でさしたる功績がなかったにもかかわらず、 明治新政府の中心人物になったことから、漁夫の利のようにいわれることもあるが、妻の梅子もまた活躍するのは明治維新後である。


事実、彼女の気質は明治という時代にふさわしかった。 勝気で進取の精神にあふれ、 己心が強い。後年、下田歌子に和歌を学び、英語の習得にも熱心だった。


公家や武家出身者からは成り上がり者と差別されたり侮蔑される事も多かったに違いない。


しかし勝ち気の梅子はそれらをはねのけるために、たえず毅然としていた。


博文が政府の要職につくと、木戸夫人・松子と並んで明治女性の艦とたたえられ、身だしなみは一分のすきもなく、 いち早く洋装を取り入れた。


1884年明治17年に宮中女官の制服が洋装に改められた際には、裁縫師らとともに舶来の見本を元に、自ら針を持ったとい う。


井上馨外務卿・武子夫妻の主催により鹿鳴館で初めて舞踏会が開催されると、陸奥宗光・亮子夫妻や渋沢栄一・兼子夫妻とともに見事なドレス姿で舞踏会を盛り上げた。


首相の夫・博文を支えるため、舞踏会の前にファーストレディの梅子は尻ごみする令夫人たちの先頭に立ってダンスの習得に励んで範を示し気丈な姿で記念撮影に応じている。


ただ、夫は無類の女好きで戸田氏共夫人で岩倉具視の娘・極子と浮き名を流すなど苦労は尽きなかった。


博文は1909年明治42年、ハルビンで暗殺されるが伊藤梅子は1924年大正13年、76歳で逝去した。


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