徳川宗家を継いだ家達に五摂家の筆頭・近衛家の長女・泰子が嫁ぎ天璋院の厳しい武家式の教育を受けるが見事合格している。徳川家達と泰子を詳しく見ていこう。


徳川家達は1863年、田安徳川家の三男として生まれたが、兄たちが夭逝したため田安家とともに、のちには徳川宗家の家督を継いでいる。


一方の泰子は1867年、公卿・近衛忠房の長女として生まれている。兄は近衛篤麿で兄の長男がのちに首相となる近衛文麿である。


徳川家達と泰子は1882年明治15年に結婚するが、家達は明治36年に貴族院議長になり昭和8年に辞任するまで30年以上も貴族院に君臨している。


家達は議長として有能で、国会の議事の進行は通常、議長が事務方の用意した書面を読み上げながら行うが、家達は自分で文章を考えて運営した。


審議がもめて皆がギスギスしている時にもユーモア溢れる対応で人々を和ませ感心されたという。


家達の次の貴族院議長は近衛文麿で、家達の前任者が篤麿であったため、貴族院議長は家達と義兄、甥の3人が40数年に渡って独占していたことになる。


泰子は家達が留学中に花嫁修業のため天璋院から厳しい武家式の作法を直接教授され見事合格している。

泰子は何をしても見事にこなす文字通り良妻賢母の見本のような女性であったが、特に裁縫が得意で布団も自分で縫い上げる器用さであった。

1884年明治17年に家達と泰子の間には待望の嫡男・家正が生まれるが、天璋院は家正には島津家から嫁を迎えるように遺言して逝去する。そのため島津家から正子が正室に迎えられた。

しかし、島津家の姫として育った正子は家事など一切出来なかったため、完璧に家事をこなす泰子を前に、やがてうつ状態になり閉じ籠りがちとなった。





そのため家正と正子の間に子供が生まれると、ほとんど泰子が子育てをしたという。泰子は徳川慶喜の娘たち5人を預り国文などを教えながら育てている。


泰子は長く貴族院議長を勤めた夫・家達の秘書がわりもこなし健康管理にも気を配った。太り気味の家達のために家庭内では甘いものを禁じたが、家達は泰子に隠れてこっそりと飴などを食べていたという。

泰子は家達に付き添って漢口など中国各地へも訪れてたが、現地でスペイン風邪に罹患、危うく命を落としかけている。

家達は大正10年にはワシントン軍縮会議の全権として活躍したが、1940年昭和15年に76歳で亡くなった。




泰子はその後日本赤十字活動で活躍したが、1944年昭和19年、76歳で逝去した。