明治天皇の誕生日「天長節」の夜会が開催された鹿鳴館の中央階段から鍋島直大夫人の栄子が降りてくると、フランス人海軍士官たちの目もその美しい栄子に釘付けとなった。鍋島直大と栄子を詳しく見ていこう。


鍋島直大は1846年、佐賀藩主・鍋島直正の嫡男として生まれた。父の直正は長崎が近いこともあり早くから蘭学や西洋技術を藩内に取り入れ、西洋式兵器の製造まで手掛けていた。


直大は1861年に16歳で家督を継ぐが徳川慶喜が大政を奉還し、戊辰戦争が始まると、藩内で製造したアームストロング砲で上野の彰義隊を半日で壊滅させる活躍をする。


明治維新後はイギリスに留学してオックスフォード大学で学ぶが、1874年明治7年に江藤新平らが佐賀の乱を起こすと一時帰国して旧藩士などと再会して鎮静化に務めている。胤子夫人と再びイギリスへ戻る。


直大は帰国して外務省の賓客応接を担当するが、1880年明治13年に胤子は逝去する。イタリア公使の任を受けた直大は急きょ権大納言・廣橋胤保の娘栄子と婚約、イタリアで結婚している。


栄子は最初、岩倉具視の長男・具義と結婚したがすぐに亡くなったため、どちらも再婚同士のカップルであった。


1882年明治15年、栄子はイタリアの都ローマで女児を出産したため「伊都子」と名付ける。社交的でドレスの似合う栄子はイタリアでも評判となるが、直大に帰国命令が下る。


帰国した直大は宮中顧問官となって明治天皇に付き従う。外務卿井上馨による欧化政策の一環として鹿鳴館が建設されると、直大と栄子夫妻は西洋の風習と礼儀作法に詳しく賓客の接待に欠かせない存在となる。


接客に長けダンスが得意な栄子は、陸奥宗光夫人の亮子や戸田夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と称えられた。


1892年明治25年には永田町に洋風三階建ての鍋島邸が十年の歳月をかけて完成、落成式には明治天皇が行幸している。


1896年明治29年にはイタリアで生まれ15歳になった伊都子が、皇族の梨本宮守正王と結婚、方子と規子の王女が生まれている。


方子はやがて元朝鮮国王の皇太子と結婚して波乱万丈の人生を歩んでいる。


直大は雅楽の普及にも務めたが、1921年大正10年、75歳で逝去した。栄子は1941年昭和16年に86歳で逝去した。


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