坂本龍馬は亀山社中の資金繰りに窮すると長崎の女豪商・大浦慶に3千両を借り受け、担保がわりに部下の陸奥宗光を差し出した。坂本龍馬と大浦慶の関係を詳しく見ていこう。


坂本龍馬は神戸海軍操練所が閉鎖されると陸奥宗光ら約20人と日本初のカンパニーと言われる海運業・亀山社中を長崎で結成した。


一方の大浦慶は17歳で婿養子を迎えて長崎の油商「大浦屋」を引き継いだが、たった1日で婿を追い出している。たぶんこの婿では商いは無理だと判断したのであろう。


以後は生涯独身を貫き、油屋に見切りをつけてお茶の海外輸出に目をつける。当時は中国茶が戦乱のために不足、イギリスの茶商人・オールトは貿易相手を探していた。


慶は九州の茶葉をかき集めてオールトを通じてアメリカやイギリスに輸出、32歳にして巨万の富を築き女豪商として全国的に有名となった。


そんな慶の噂を聞き付けて若い尊攘志士たちが「大浦屋」に出入りするようになる。慶は志士たちのスポンサー、パトロンとなり、坂本龍馬、大隈重信、松方正義らの面倒を見た。


龍馬は軌道に乗らない亀山社中の資金繰りに窮すると慶に3千両の借金を申し込む。慶は担保がわりに若くて男前で有名な龍馬の部下・陸奥宗光を差し出させたという。


慶は後年、宗光にお風呂で背中を流させたと告白している。独身で女盛りの慶である、もちろん夜の相手もさせたことだろう。


龍馬はやがて土佐藩の支援を受けて亀山社中を海援隊に発展させ、薩長同盟の締結にも活躍するが、1867年に中岡慎太郎とともに京都で暗殺される。


明治維新とともに長崎は徐々に衰退、お茶の輸出はその後全国的に広がり、次第に静岡が中心となっていく。そんな折、慶に遠山一也と名乗る熊本藩士が訪ねてくる。


遠山は慶を巧みに信用させ、オールトとの商談に慶を騙して保証人にさせ、手付金3千両(現在の貨幣価値で約3億円)を持ち逃げする。


すべての家財を処分して返済するが、このため大浦屋は没落、大浦慶は1884年明治17年、57歳で逝去した。


大浦慶は日本茶の輸出貿易の先駆者であり、楠本イネ、道永栄とともに長崎の三女傑として現在も称えられている。


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