徳信院(徳川直子)と徳川慶喜は系図上では祖母と孫の関係だが7歳年上の徳信院と慶喜が仲睦まじくするのを見て、妻の美賀君は嫉妬して慶喜を叩いたり突飛ばしたりした。徳信院とその後を詳しく見ていこう。


徳信院は1830年、伏見宮貞敬親王の王女として京都に生まれた。9歳で一橋家当主の徳川慶壽と婚約して1841年に江戸で婚礼を挙げた。


実は婚礼の数か月前に徳信院の姉の隆子女王が愛人と駆け落ちする事件が発生した。縁談を拒否し続けての逃避行だったため、仁孝天皇の怒りを買った隆子女王は出家させられ生涯を終え、親族も罪を問われている。


俗世間から一切隔離された状態で育った宮家の姫が恋に盲目となり、親族の反対を押切、一途に意思を通そうとしたために親族まで罪を問われるのは昔も今も変わらないのかも知れない。


徳信院が11歳で嫁いで僅か5年半で夫の慶壽は24歳で天然痘のために他界、そのため徳信院はわずか16歳で落飾した。


当主を失った一橋家は尾張徳川家から乳児の昌丸を迎えるが数か月で病死、水戸・徳川斉昭の七男・慶喜を当主に迎えた。

徳信院と慶喜は系図上では祖母と孫という関係であるが徳信院が7歳だけ年上で、11歳で嫁いだ経験をもつ徳信院は実の姉のように11歳の慶喜の面倒を見て大事に育てた。

このため徳信院と慶喜は互いに何でも話し会える親しい間柄となったようである。


1855年に18歳になった慶喜は20歳で一条家から嫁いだ美賀君と結婚する。しかし慶喜が徳信院と仲睦まじく謳いの稽古をするなど親しく接する姿に、美賀君は嫉妬して慶喜を叩いたり突飛ばしたりして暴れた。


それでも自分に興味を示さない慶喜を見て美賀子は狂言自殺まで図ったという。のちに美賀君は徳信院と慶喜の関係が姉弟愛に近いことを知り徳信院とも仲直りしたようである。


維新後は小石川に移り住んだ徳信院は、1886年明治19年、静岡へ出かけ20年ぶりに慶喜と再会して食事などをしている。


1890年明治23年、慶喜の三女・鉄子を一橋達道の妻に迎えた。達道は慶喜の跡を継いで尾張徳川家から迎えた茂栄の嫡子である。


徳信院は1893年明治26年正月三日に逝去した。享年64であった。


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