シーボルト・ハナは夫のハインリッヒが帰国する時、一緒に渡欧せずに子どもたちとともに日本へ残る道を選択する。シーボルト・ハナとその後を詳しく見ていこう。


シーボルト・ハナ(岩本はな)は1851年、江戸・日本橋の袋物を手広く商いする武蔵屋・岩本吉兵衛とヤスの間に生まれた。


父親の吉兵衛は加賀の武士の子であったが、袋物師となり徳川御三卿の田安家の御用商人になるなど商才に長け、また母親のヤスは書道に優れ、田安家の祐筆を努めていた。


ハナも幼少から稽古ごとに励み、踊りや三味線がとても上手であった。ドイツ人のフィリップ・フォン・シーボルトの息子のうち二人が来日したが、弟のハインリッヒは歌舞伎を愛し、吉兵衛の店に通ううちにハナを見初めた。


実はハナとハインリッヒの出会いをサポートしたのは父親の吉兵衛であった。明治維新になると吉兵衛は外国人相手の商売を思いつき、横浜の外国人居留地に出入りするうちにハインリッヒと知り合ったのである。


ハインリッヒは熱心にハナを口説き落とし1872年、二人は結婚する。ハナは22歳、ハインリッヒは21歳であった。


1873年明治6年、二人の間には男の子が生まれるが、取り上げたのは産院を開業するシーボルトの娘でハインリッヒの異母姉のイネであった。


しかし数か月後には父親の吉兵衛に続いて男の子を失ったハナは大きな悲しみに遭遇する。そんなハナをハインリッヒはやさしく慰めた。


ハインリッヒは兄のアレキサンデルとともに華族制度を導入、鹿鳴館で華やかな外交官デビューを果たす。


ハインリッヒはオーストリアの代理公使などを務めるが、ハナは華やかさを好まない家庭的な女性で、外交官夫人であったが鹿鳴館には行かなかったという。


1877年には待望の男の子が生まれ、オットーと名付ける。続いて1879年には娘のレンが生まれハナとハインリッヒの幸せ溢れる家庭生活が続いた。


だがやがてハインリッヒは帰国することになったが、ハナは生まれ故郷の日本を離れることを嫌がる。


ハインリッヒはハナと子どもたちを残して帰国の途についた。ハナはその後、踊りの師匠として生計をたてるが、福沢諭吉の娘にも教えている。


ハナはシーボルト夫人として明治政府の高官にも大事にされている。ハナは1936年昭和11年、多くの孫たちに囲まれながら86歳で逝去した。


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