桑名藩主の松平定敬は鳥羽伏見の戦いで、藩士たちを置き去りにして徳川慶喜と江戸へ立ち去ったため、藩主たちは途方にくれた。松平定敬とその後を詳しく見ていこう。


松平定敬は1847年、美濃国高須藩主・松平義建の八男として生まれた。1859年に桑名藩主・松平定猷(さだみち)が死去すると、初姫の婿養子として迎えられ伊勢国桑名藩主となった。


定敬は「高須四兄弟」として有名で、二男の慶勝は御三家筆頭の尾張徳川家、五男の茂徳(もちなが)は御三卿の一橋家、七男の容保は会津松平家の養子にそれぞれ就任し、幕末の歴史に大きな影響を与えている。


1864年、定敬は敬慕する兄で京都守護職の松平容保と行動をともにし、京都所司代に任命され、将軍後見人の一橋慶喜を中心に一会桑政権を築いた。


第15代将軍に就任した徳川慶喜は1867年に大政を奉還する。そして翌年1月に鳥羽伏見の戦いが勃発すると定敬は桑名藩士を率いて上洛するが、緒戦で敗退すると藩士たちを置き去りにして慶喜と江戸へ逃亡する。


残された桑名藩士たちは途方にくれるが、家臣たちは協議の末、国元の先代遺児・万之助を擁立して新政府に恭順することを決定した。

一方の定敬は桑名へは帰らず家老の吉村権左衛門ら百人ほどと藩の飛び地である越後柏崎へ向かった。米沢や仙台で新政府軍と戦うが次々に敗れた定敬は、恭順論を唱え出した家老の吉村を暗殺し、榎本武揚と函館・五稜郭へ向かう。


新政府に恭順した桑名藩では定敬を説得するため家老の酒井孫八郎らが海路で函館へ向かい恭順を説いたが定敬は応じなかった。


実はこの時、定敬は旧幕府老中の小笠原長行や板倉勝静と海外逃亡を計画しており、やがて資金を調達して上海へ逃亡した。ところが一か月あまりで金欠となり惨めにも横浜へ帰還して出頭している。


定敬は津藩預りとなり、桑名藩は減封されるが万之助が家督を継いだ。定敬は死罪を免れたが、家臣・森弥一左衛門が身代わりに切腹している。定敬は森弥の遺骨を松平家の墓に分骨するなどして霊を弔った。


1877年明治10年に西郷隆盛が政府に反旗を翻し西南戦争が始まると定敬は桑名に戻り、旧藩士たちに参戦するように説いて回った。400人あまりが集まると九州へ渡ってともに戦闘に臨んでいる。惨敗した戊辰戦争での薩摩への怨みをはらしたのかも知れない。


1894年、兄の松平容保のあとを継いで日光東照宮の宮司に就任した松平定敬は1908年明治41年、62歳で逝去した。


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