渋沢栄一は徳川慶喜の伝記「徳川慶喜公伝」の編纂に、25年もの歳月をかけて完成させている。栄一がなぜ慶喜の伝記編纂に、それだけの意欲と労力を注いだのだろうか。栄一の自伝にその理由が書かれているので少し長いが引用しよう。


「私が旧主徳川慶喜公のご伝記を編纂するようになったのは、一つには恩返しのためである。もちろん私は一橋家に代々仕えてきた家臣ではない。また、その禄を食んだといっても、その期間はわずかに五年ほどに過ぎない。


しかし当時、死を覚悟した生命を慶喜公によって助けられ、私が今日あるのは、一に一橋家仕官時代にはじまったと思っている。その大恩がどうしても忘れられず、また世間で慶喜公を誤解している人々も多い。


もし誤って後世に伝えられるようなことになりでもすれば、誠にお気の毒でもあり、遺憾でもあり、後世を誤ることも多か ろうと思い、私が進んで慶喜公のご伝記を編纂することにしたのである。」栄一は以上の理由で慶喜の伝記を編纂した。


1893年明治26年、栄一は、旧幕臣で旧友の福地源一郎と慶喜の伝記を編纂することで意気投合、慶喜に許可を求めた。しかし慶喜は当初伝記編纂を許可しなかった。


当時はまだ慶喜に対する評価は辛辣で、敵前逃亡した将軍、徳川家を滅亡させた人間、などと批判する旧幕臣などが多く存命していた。


このため慶喜は、内容が世間に知られないようにする、さらに伝記は慶喜が亡くなってから公表する、という条件の元、やっと編纂を許可した。


源一郎を中心に編纂は進められたが、1906年に源一郎が逝去する。このため栄一は長女歌子の婿・穂積陳重と、次女琴子の婿・阪谷芳郎と編纂方針を協議する。


慶喜は1902年には明治天皇に拝謁、公爵を授けられていた。そのため伝記編纂の目的も、当初は「慶喜の冤を雪ぐ」ことから歴史的事実の確かな伝記を完成させることに変化した。


渋沢栄一が実戦の中で晩年に掴んだ珠玉の原則である。格差社会の問題点が大きくクローズアップされる現在、時代は変わっても栄一の教えから学ぶことは多いはずだ。


ワシントン軍縮会議を成功させるために81歳で渡米中、栄一に教えを請おうとする実業家はアメリカでも多く、夜にワシントン、翌日の午後にはニューヨーク、そして夜には再びワシントンという強行スケジュールであった。


しかし栄一は、ワシントンとニューヨーク間が5時間もかかる時代に、精力的に日程をこなしたという。栄一の生き方からより広い、グローバルな視野を持つことの重要性を知らされるエピソードである。


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