パリ万博へ参加する徳川昭武に随行する事になった渋沢栄一は、1867年1月、将軍に就任した徳川慶喜に二条城に招かれ、弟の昭武を紹介される。フランスの軍服を着た慶喜に栄一は驚くが、ナポレオン3世から贈られたものだという。


昭武が退出し、栄一と二人だけになると慶喜は、昭武に西洋文明を見聞させ、帰国後は自分の代わりに将軍にするつもりだと明かした。そのためパリ万博の終了後も数年の間、留学を続ける昭武の面倒を見るように栄一に依頼する。


京都を出立して横浜に到着した昭武と栄一たち一行を、外国奉行の栗本鋤雲や勘定奉行の小栗忠順が迎えた。栄一は外国方の杉浦愛蔵や医師の高松凌雲ら、一緒に随行する人々と自己紹介しあった。


また通訳の福沢諭吉や福地源一郎もいた。勘定奉行の忠順は今回の目的が、パリ万博だけではなく、一番の目的は、フランスからの600万ドル(現在の価値で約600億円)の借款であることを栄一に告げた。


この借款が成功すれば、横須賀製鉄所を完成させ、幕府の陸海軍を最新装備の強力な軍隊にすることが出来るとも付け加えた。


栄一は喜作と江戸で会い、しばしの別れを惜しんだ。一行33人は、フランス船アルフェー号で出航、上海、サイゴン、セイロン、スエズを経由して、約60日でフランスのパリに到着した。


昭武一行は公式通訳のカションを紹介されるが、日本から同行して日本語が堪能なアレクサンダー・シーボルトを通訳として使い続ける。このシーボルトがイギリスと薩摩藩へ情報を漏らしている事を知らずに。


栄一たちはパリ万博で、蒸気機関などの出品に驚くが、一番驚いたのが薩摩藩が「薩摩琉球王国」として幕府とは別に出品していたことである。


シャルル・ド・モンブランという薩摩藩の五代友厚と親しい人物が、友厚の依頼で協力していたのである。


そのため「日本は一つの国ではなく連邦国」だとフランスの新聞にも大きく報じられた。


幕府からは応援で外国奉行の鋤雲もやって来て、昭武はナポレオン3世や各国の帝王とも会見するが、結局600万ドルの借款は失敗に終わる。


さらにシーボルトを通じてイギリスに流れた情報は、そのまま薩摩藩へも流れていく。海外経験の浅い幕臣たちには、機密漏洩に対する警戒心が希薄だった。


 

 


日本ではフランスからの借款が出来なかったため、やがて慶喜は、イギリスの支援を受けた薩長連合に鳥羽伏見で敗れ、江戸へと逃げ帰り、江戸無血開城へと続いて行く。昭武と栄一ら一行も予定を急遽変更して帰国の途につく。


幕府は国内の戦闘に負ける以前に、すでに薩摩藩の外交戦に敗れていたのである。この訪欧によって、窮地の慶喜を救うことは出来なかったが、栄一が、その後の日本へ、資本主義を導入する切っ掛けとなったことが、せめてもの救いである・・


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