1867年(慶応3年)10月14日、薩摩藩と長州藩に向け、将軍徳川慶喜を殺害せよと記された勅書が手渡された。いわゆる「討幕の密勅」である。実は「討幕の密勅」とは慶喜殺害命令の指示書だったのである。


そして現在では、この「密勅」は、明治天皇には無断で作成されたことも判明している。岩倉具視が起草して、薩摩藩の大久保利通へは、正親町三条実愛が執筆して手渡し、長州藩へは中御門経之が執筆して広沢真臣へ手渡したこともわかっている。


正親町三条実愛は後年、「討幕の密勅」は明治天皇には秘密で、自分と中山忠能、岩倉具視、中御門経之の四人で計画、実施し、ほかにだれも知るものはいなかったと証言している。この事を察知した慶喜は、同じ日に先手を打って大政奉還を奏上した。


この「密勅」について「昭和」の教科書では触れられていなかったが、「平成」の教科書からは記述されるようになった。長くタブーとされてきたが、その「討幕の密勅」とはどのようなものかを、現代語訳でみていこう。


「討幕の密勅」

「詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。


この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆し滅んでしまうであろう。私(明治天皇)は今や、人民の父母である。この賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、私の憂い、憤る理由である。


本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。」


 

 


以上が現代語訳の「討幕の密勅」全文である。討幕の指令書というよりも、まさに「慶喜殺害」の指示命令書というべき内容である。しかも明治天皇はもとより正親町三条ら四人以外には極秘で作成されているのである。


慶喜が機転を効かせて大政奉還したことで、この「密勅」は反古同然となるが、もし大政奉還するのが遅れていれば、どのような展開となったのだろうか。


「討幕の密勅」が、長くタブーとされてきたのもうなずける話だが、明治維新という時代のイメージが、大きく変わる内容であることは確かである。


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