幕末に、旗本としては若年寄へ異例の出世を遂げ、徳川慶喜に重用され、函館戦争でも戦い、作家・三島由紀夫の高祖父でもあるのが、永井尚志である。


永井尚志は1816年、三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹と側室の間に生まれた。しかし父乗尹は高齢で、すでに養子を迎えて家督を譲っていた。尚志は幼少期からよく本を読み、独学で蘭学を学んでいる。そのため旗本の永井家に養子として迎えられ家督を継いだ。


1853年、浦賀にペリーが来航すると、西洋事情に詳しい尚志は、老中・阿部正弘に抜擢されて目付となった。さらに長崎海軍伝習所の所長となり、勝海舟や榎本武揚らに教授している。1858年には江戸へ呼び戻され、岩瀬忠震と外国奉行となり、フランスやロシアと通商条約を締結している。


しかし尚志は、家定の将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推挙していたため、大老・井伊直弼に罷免・失脚させられる。桜田門外の変で直弼が討たれると、1862年に尚志は、京都町奉行に復帰する。


 

 


尚志は特に交渉力に優れていたため、一橋慶喜に重用され、「禁門の変」では朝廷との交渉役で活躍、1867年には、旗本としては異例の若年寄に昇進、慶喜の命で、「大政奉還」の奏上文を草案している。「鳥羽・伏見の戦い」で慶喜が新政府軍に敗れると、江戸まで付き従って、徳川家の駿府移封を決まるまで慶喜につかえている。


幕臣として筋を通そうとした尚志は、教え子でもある榎本武揚や、渋沢喜作(成一郎)、そして新選組の土方歳三らと北海道へ渡り「蝦夷共和国」を設立、函館奉行に就任している。函館五稜郭に立て籠り、約半年にわたって新政府軍と戦うが、やがて降伏する。


新政府では元老院権大書記官などに迎えられたが、やがて引退、尚志は1891年明治24年、75歳で逝去した。尚志は、作家の三島由紀夫の父方の高祖父(祖父の祖父)にあたっている。


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