同じ土佐藩の出身者として、坂本龍馬や中岡慎太郎と連携しながら大政奉還では大きな役割を果たすが、明治維新後は征韓論で敗れ、西郷隆盛や板垣退助と下野したのが、後藤象二郎である。


後藤象二郎は1838年、土佐藩藩士・後藤正晴の長男として高知城下に生まれたが、板垣退助とは竹馬の友であった。幼少期に父親を亡くしたため、義理の叔父・吉田東洋に養育された。1858年に二十歳で東洋の推挙によって、幡多郡奉行となっっている。象二郎は東洋を中心に結成された「新おこぜ組」に参加、藩政改革に取り組んだ。


しかし1862年に、武市半平太らが組織する「土佐勤王党」に東洋は暗殺される。象二郎は江戸へ出て、開成所で英語や航海術を学んだ。翌年に山内容堂の信任を得て、土佐藩大監察に復帰すると、土佐勤王党を弾圧。半平太を切腹に追い込んだ。



その後象二郎は、土佐藩参政として内政や外交に活躍。1866年には開成館を設立して、藩の産業振興を図るとともに、薩摩藩から艦船や鉄砲を購入した。また坂本龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪を許す代わりに協力を求め、海援隊、陸援隊を組織させる。


龍馬が書いた「船中八策」を容堂と協議して修正。容堂は建白書として徳川慶喜に奏上し1867年に大政奉還がなされた。また象二郎は、薩摩藩家老・小松帯刀や大久保利通と薩土盟約を成立させている。


明治維新後に象二郎は、大阪府知事や参議を歴任するが、征韓論で敗れ下野し、1881年に板垣退助と自由党を結成している。象二郎と退助は、ルイ・ヴィトンの顧客になった初めての日本人でもある。退助と渡欧した1882年に、フランスのヴィトン本店で、鞄を購入した顧客名簿の中に、退助と象二郎の名が記されている。


また渋沢栄一とは1893年、商法改正について農商務大臣の象二郎に、栄一が願出るなどの接触をしている。


象二郎の娘・早苗が三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の弟・弥之助と結婚。政界と財界の癒着と非難されることも多かった。象二郎は1897年、60歳で心臓病のため逝去した。


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