日本初の、反射炉建設や、医師免許制度導入を行うが、幕府と朝廷のどちらにつくか、なかなか態度を決めなかったため、肥前の妖怪と言われた佐賀藩主が、鍋島直正である。


鍋島直正は1815年、肥前佐賀藩35万7千石・9代目藩主・鍋島斉直と幸の子として生まれた。直正は17男であったが、正室の子供であったため、17歳で家督を継いでいる。藩主となり、江戸から佐賀へ帰る途中の品川宿で、直正は借金取りに足止めされる。佐賀藩は先代の豪奢な生活がたたり、借金まみれとなっていた。この屈辱的な経験が、その後の直正の生き方を決定づけた。


直正は大胆な藩政改革に乗りだし、まず役人の数を5分の1に削減。そして出自にこだわらず、藩の中枢にも有能な人材を採用。大隈重信、江藤新平、副島種臣らが登用されている。さらに磁器、茶、石炭といった産業を育成、傾いていた藩財政を建て直した。


また直正は、長崎警備を名目にして、藩内での武器製造にも取り組んだ。日本初の西洋式反射炉を建設して鉄砲を製造、のちには国内初のアームストロング砲の製造に成功している。さらに1848年には、侍医の伊東玄朴に命じて、当時不治の病といわれた天然痘撲滅のため、日本初の種痘にも成功、やがて京都、大坂から全国への種痘普及に貢献している。


1853年にペリーが浦賀に来航すると、老中・阿部正弘の要請を受けて、品川台場の砲台建設に技術協力した。また母方の従兄弟である薩摩藩主・島津斉彬が、反射炉を建設する時も手助けしている。直正は財政再建に手腕をふるい、西洋技術の導入に積極的であったことから「そろばん大名」「蘭癖大名」とのあだ名がついた。


 

 


また直正は、大きな軍事力を持ちながら、幕府につくか朝廷につくかなかなか態度を決めなかったため「肥前の妖怪」と言われた。しかしようやく鳥羽伏見の戦いで幕府が負けると、直正は薩長土の新政府軍に味方する。上野戦争では、肥前佐賀製のアームストロング砲2門が、渋沢喜作率いる彰義隊を、半日で壊滅させる働きをしている。


直正は新政府で岩倉具視と大納言となり、薩長土肥の政治体制を確立した。しかし1871年明治4年、直正は58歳で病没した。「もし戦国の世に生まれていたなら、もう少し面白い人生を送れたのかもしれない」と死ぬ間際に呟いたと言われている。


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