戦闘回避を唱え、裏切者にされた会津藩家老西郷頼母の妻として、主人は保身のために戦争に反対したのではないことを示すため、5人の娘を含む一家21人と自害して果てたのが、西郷千恵子である。


西郷千恵子は1835年、会津藩士・飯沼粂之進の二女として生まれた。千恵子は17歳で、のちに会津藩・家老となる西郷頼母と結婚し、2男5女をもうけ幸せな家庭を築いた。しかし1867年に将軍徳川慶喜が大政奉還、翌1868年には戊辰戦争が勃発する。


徳川家と縁が深く、東北での佐幕派の中心であった会津藩には、新政府軍が押し寄せて若松城を包囲する。

会津藩家老の頼母は見識が高く、以前から戦闘回避を訴えていた。しかし藩内は主戦論派が圧倒的で、頼母は孤立した。8月23日、頼母と息子を城へ送り出した千恵子は、残った一家全員を集めいざというときには、潔く自決することを説いた。城下では火を放って一家で自決する武家も多く、各所から火の手が上がった。


飯森山の少年兵士で組織された白虎隊は、城下に煙が上がるのを見て、若松城が落城したものと考え、全員が自決する。一方、一家21人と白装束に身を包んだ千恵子は時世の句を読んだ。


 

 


「なよたけの   風にまかする 身ながらも  たわまぬ節は ありとこそ聞け」   細くしなやかな竹が風に身ををまかせるように、普段は従順な女性であっても、いざというときには、強い一面を見せるものだと。


千恵子は2歳の末娘から短刀で刺した。そして自らも自害。千恵子は34歳であった。そして頼母の母や妹たちも互いに刺し違えて、一家21人全員が自決した。新政府軍の兵士が西郷邸に入った時、まだ一人の少女だけが、かすかに息をしていた。少女は懐刀を取り出し、消え入るような声で、兵士に介錯を哀願する。兵士は涙ながらに介錯し、「これが会津のもののふか」と感嘆したという。


会津ではこの戦争で、二百人以上の女性が自害または戦死した。


【西郷千重子】ユーチューブ動画


 


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