高野長英や大村益次郎に蘭学書を翻訳させ、西洋式軍隊や日本初の蒸気船を作らせた開明派の宇和島藩主が、伊達宗城である。


伊達宗城は1818年、3千石の旗本・山口直勝の第四子として江戸に生まれた。姻戚関係の宇和島藩主・伊達宗紀に嗣子がなかったため12歳で養子となり、27歳で藩主となった。宗城は富国強兵、殖産興行をスローガンに藩政改革を実施。蛮社の獄で追われていること承知で高野長英を招き、蘭学書や兵法書を翻訳させ、軍隊を洋式化させた。


また、長州の大村益次郎を招き、医学書を翻訳させるとともに、軍艦の製造・研究をさせている。宗城はさらに御船方に職人の前原巧山を抜擢、黒船をモデルにした日本初の蒸気船を作らせている。巧山はのちにミシンも製造、藩の産業振興に大いに貢献している。さらに宗城はシーボルトの娘・イネが混血のため差別されていたため「楠本伊篤」と改名させ保護している。イネは後に日本人女性で初めての産婦人科医となり、宮内庁御用掛となった。


宗城は松平春嶽、島津斉彬、山内容堂らと交遊し、幕末四賢侯と称せられた。そのため1853年にペリーが来航すると、宗城は藩政を前藩主の宗紀に任せ、老中・阿部正弘を通じて幕政にも積極的に意見を述べた。宗城は四賢侯とともに家定の将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推挙する。しかし阿部正弘が急死、井伊直弼が大老に就任すると、安政の大獄で宗城ら四賢侯は隠居・蟄居処分となる。


 

 


そのため宗城は宗徳に家督を譲るが、藩の実権は持ち続けた。桜田門外の変で直弼が討たれ、坂下門外の変で安藤信正が襲撃され、幕府の権威は失墜する。宗城は土佐の容堂らと大政奉還に大きく寄与する。しかし続いて行われた王政復古の大号令や小御所会議では、クーデターともいえる、岩倉具視や薩摩・長州の徹底した幕府排除の手法には違和感を覚え、容堂とともに徳川家擁護の立場を取った。


明治維新後は議定となり、民部卿兼大蔵卿となったが1871年に引退、宗城は1892年明治25年に病没した。享年75歳であった。


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