幕府と日米修好通商条約を結び、将軍徳川家茂にリンカーン大統領の親書を直接手渡した初代駐日公使が、タウンゼント・ハリスである。


タウンゼント・ハリスは1804年、アメリカ・ニューヨーク州ワシントン郡・サンデーヒルのジョナサンの六男として生まれた。家は陶磁器商を営んでいたが貧しく、ハリスは中学校を卒業すると家業を手伝うかたわら、図書館を利用して語学を独学で勉強した。不況から家業が行き詰まると、陶磁器の販売から、貿易業へと転換する。


フィリピンからインド、中国へと足を伸ばし、広く東洋の陶磁器を中心に貿易を展開するうちに東洋、特に日本に興味を持つようになる。そして1853年にペリーが日米和親条約を締結したことを知ると、ペリーに日本行きを希望するが拒否される。そのためハリスはアメリカ政府に熱心に働きかけ、1855年、ついに日本総領事に任命された。


1856年に、ハリスは通訳のヒュースケンと下田に上陸、玉泉寺を宿舎として幕府と修好通商条約締結の交渉に入る。しかし幕府は攘夷派の徳川斉昭らの強い反対で、朝廷の勅許が降りない事を理由に締結を拒否。下田では埒が明かないと考えたハリスは、将軍のいる江戸行きを希望するが、幕府役人はノラリクラリと言い逃れた。


 

 


時間だけが過ぎ、焦燥感からか50歳を過ぎたハリスは、持病の胃腸病がさらに悪化、吐血を繰り返した。このためヒュースケンが幕府役人に「看護婦」派遣を要請したが、何かの手違いで芸者のお吉とお福が連れてこられた。クリスチャンで酒やタバコもやらず、潔癖症でしかも重病のハリスは、お吉に腫物があるのに気付き、たった三日間でお吉に暇を出した。しかし、お吉はその後、外国人と接したという事から「唐人お吉」と呼ばれて理不尽にも差別された。


ハリスはその後奇跡的に体調が回復、1857年には江戸行きが許され、将軍徳川家定に謁見。そしてイギリスとフランスが中国の次に日本を狙っている事を幕府要人に熱心に説いたため、ついに1858年、井伊直弼らが勅許なしに、日米修好通商条約を調印した。ハリスは江戸元麻布の善福寺を公使館にして、初代駐日公使に収まり、将軍徳川家茂にリンカーン大統領の親書を直接手渡している。


しかし1860年には直弼が桜田門外の変で討たれ翌年にはヒュースケンが暗殺される。そのため体調不良を理由にハリスはアメリカ政府に帰国を申し出て、1862年に帰国した。1878年、ハリスは生涯独身のままフロリダで逝去した。75歳であった。


【ハリス】ユーチューブ動画

 


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