幕末に日本を長い眠りから揺り起こし、開国させたアメリカ海軍の提督が、マシュー・ガルブレイス・ペリーである。


ペリーは1794年、アメリカのロードアイランド州ニューポートで生まれた。祖父は英国からの移民である。


1809年、ペリーは海軍士官候補生となる。兄のオリバーも有名な海軍軍人で、エリー湖でイギリス海軍を打ち破る活躍をしている。


1833年にブルックリンの海軍工廠の造船所長となる。またメキシコ戦争で活躍の後に、造船監督官として蒸気力の軍艦への応用に業績を残し「蒸気船海軍の父」とたたえられている。


1853年6月、ペリーはアメリカの東インド派遣艦隊の司令官としてミシシッピ号に乗り、ケープタウン、セイロン、沖縄を経由して、四隻の艦船で浦賀に来航する。ペリーはアメリカ大統領フィルモアの国書を携えていた。


中国を阿片戦争で破ったイギリスと東アジアの覇権を争うアメリカは、日本を足掛かりにその勢力を拡大しようとしていた。


浦賀は彦根藩が約二千人で警備していたが、突然の黒船出現で警備の者たちは大慌てする。また黒船来航の情報はたちまち江戸にも伝わり、江戸を逃げ出す者も現れるなど街は大混乱となる。


ペリーの黒船来航をうたった狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」が有名で、幕府の役人たちの狼狽ぶりを皮肉っている。


大統領国書の授受式では300人のアメリカ兵が上陸し「アルプス一万尺」が演奏されるなか、幕府役人に国書が手渡された。ペリーは来年春に再来日すると伝え浦賀を後にする。


 

 


そして予定より早く1854年1月に7隻の軍艦で再来日する。ロシアのプーチャーチンも日本との通商を狙っていたためである。


老中首座の阿部正弘はついに「日米和親条約」を締結。内容はアメリカ艦船の緊急避難と、燃料補給を許可する程度のものであった。


ペリーは締結後、体調の不良を訴えて帰国する。帰国後は名声に包まれながらニューヨークで1858年に病死した。享年63歳であった。


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