幕府役人に讒訴され幽閉されるが、西洋式最新兵器の導入を訴える続けた幕末の砲術家が、高島秋帆である。


高島秋帆は1798年、長崎町年寄・高島茂起の三男として、長崎に生まれた。父の茂起は荻野流砲術を修めていたため、秋帆は若い頃から父に砲術を学ぶ。


また秋帆は父と、出島商館長ストルレルに西洋式砲術を学んだ。そして日本初の「臼砲」の鋳造に成功、砲術「高島流」を確立した。


当時の長崎へはロシア使節のレザノフ、イギリス軍艦のフェートン号が相次いで来航、幕府へ通商を求め圧力をかけていた。


1839年に阿片戦争が始まると、秋帆は危機感を強め、幕府へ「天保上書」を提出して西洋式軍備強化の必要性を訴えた。


さらに1841年、秋帆は門人百人を引き連れて江戸へむかい、幕府お鷹場の徳丸が原で、西洋最新式火器によるデモンストレーションを実施した。この場所は秋帆にちなみ高島平と名付けられた。


幕府は絶賛して大砲二門を購入するとともに、幕臣の江川英龍に西洋式軍事技術を指南するよう秋帆に命じた。江川に教授した技術は、やがて佐久間象山、川路聖謨、大山巌らに伝えられ、日本中に広まっていくことになる。


しかし幕府目付の鳥居耀蔵が、秋帆は密貿易をしていると讒訴する。そのため秋帆は武蔵国・安中藩預りとなり、幽閉される。


 

 


秋帆は幽閉中にも「嘉永上書」を執筆、早急に軍備を西洋化しなければ、中国のように日本も西洋列強の餌食となる。また軍備を西洋化せずに、黒船を何百艘の小舟で攻めても無駄なことを、幕府に訴えている。


1853年、浦賀にペリーが来航。老中首座に阿部正弘が就任すると、特赦で秋帆は幽閉を解かれ、江川英龍の元で海防掛となる。


幕臣として、国防の重要性を訴えた続けた幕府講武所師範役の秋帆は1866年、江戸で病没した。享年69歳であった。


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